陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「事実」とはなんだろうか その2.

2006-06-08 22:10:34 | 
2.「事実」はだれが判定する?

とりあえずこの文章を読んでみてください。

 ズックの革鞄二つを振分けにし、毛繻子の蝙蝠傘をぶら下げて、二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で神戸駅に着いたのは、明治二十八年四月八日の午後五時ごろであった。

 四国へ渡る汽船は、この時間もうないので、はじめから今夜は神戸の宿に泊って、明朝一番の船に乗るつもりでいる。

 すると、線路をへだてた向かいのプラットフォームに、ただならぬ人だかりがしている。どうも旅行客ばかりではないようだ。それでしばらくそっちへ眼をやっていると、やがてその人混みがどっと崩れて、それを追いのけ追いのけ、巡査の一団がやって来た。

 巡査ばかりではない。そのまんなかに、編み笠をかぶった赤衣の男をとりかこんでいる。どうやら手錠をはめられた囚人らしい。

「ありゃ何かね」
と、夏目金之助は、ちょうどそこを通りかかった駅員にきいた。

「あれは……あいつにちがいない」
 駅員も好奇心にみちた眼でみやって、
「こないだ下関で李鴻章をピストルで撃ちよったやつがありましたやろ」
といった。

「あの犯人がけさ早く船でここの港に着いて、神戸署で休憩したあと、これから東京ゆきの汽車に乗せられるんですわ」

「東京へ」

「いえ、東京は通過するだけで、そのまま北海道の監獄へ送られるとか、そんな話ききましたが」

「ははあ」

 その男のことは、金之助も新聞で読んで知っている。

 去年からの戦争の勝敗がこの二月に明らかになって、三月十九日清国の講和全権李鴻章一行が下関にやってきて、日本側の全権伊藤博文、外務大臣陸奥宗光と談判にはいった。ところが三月二十四日、会場となった春帆楼から、支那風の輿に載って旅宿に帰る途中の李鴻章に、群衆にまぎれてれて接近し、ピストルで狙撃した男がある。

 汚れたアツシを着、縞綿ネルの股引に紺足袋、草履ばきという若い男であった。弾は李鴻章の顔面に命中し、いちじは談判のなりゆきもあやぶまれる騒ぎになった。…(略)…

 たしかに上州出身の壮士気取りの小山六之助という男で、明治二年生まれというから自分より二つ年下になるが、若気の至りにしても軽率なやつだ。

 夏目金之助はそんなことを考えながら、神戸駅を出た。ひとまず知り合いに紹介された宿屋にゆくつもりだが、護送される若い囚人のことなどより、もう彼の心は、あした渡る四国の松山への希望と不安と好奇心でいっぱいであった。彼はそこの中学の英語教師として赴任するのであった。

 神戸駅ですれちがって、帝大出の夏目金之助は西へ、無期徒刑の小山六之助は東へ。

 漱石年表によると、彼が松山の外港三津浜に着いたのは、四月九日午後一時過ぎとある。

「ぶうと云って汽船がとまると、艀が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。日が強いので水がやに光る。見つめていても眼がくらむ。事務員に聞いてみるとおれはここへ降りるのだそうだ。見るところでは大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。威勢よく一番に飛び込んだ」



さて、以上の引用文から、事実とフィクションを選り分けてみてください。

引用は山田風太郎『明治バベルの塔』所収の短編『牢屋の坊ちゃん』の冒頭部分である。そうして引用最後の「」でくくってある部分は、原文に引用された夏目漱石の『坊っちゃん』の一部である。

まず最初の一文
「ズックの革鞄二つを振分けにし、毛繻子の蝙蝠傘をぶら下げて、二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で神戸駅に着いたのは、明治二十八年四月八日の午後五時ごろであった。」
これはどうだろう。

あとの方に出てくる「漱石年表によると……」という記述を信じるならば、「明治二十八年四月八日の午後五時ごろ」「神戸駅に」「二十八歳の夏目金之助が下りの汽車で」「着いた」、これはとりあえず「事実」と言っていいだろう。では振り分けにした「ズックの革鞄」「毛繻子の蝙蝠傘」はどうだろうか? これは、当時の風俗を考えると、十分その可能性はあるけれど、ほんとうにそのときの金之助がそういう格好をしていたのだろうか。これは「事実」かもしれないし、「事実でない」かもしれない。わたしたちに判定はできない。

少しあとの「去年からの戦争…」以下の文章はどうだろう。
これはわたしたちは「下関条約」として知っている日清戦争の講和条約のことだ。
この狙撃事件は「歴史的事実」として、歴史の本には記述されている。
実際に、その小山六之助は三月二十四日、李鴻章を狙撃し、無期徒刑囚として網走刑務所に送られた。

ならばその彼が四月八日午後五時ごろ、神戸から汽車に乗ったのだろうか。

これは何とも言えないが、資料が残っているかもしれないし、そこで「事実」かフィクションかの判断がつく。

では、夏目金之助は、小山六之助と神戸駅ですれちがったのだろうか。すれちがわなかったのだろうか。これを「事実」であるか、「事実でない」か、わたしたちは確定することができない。後の漱石はこのことを記していないために、そのような「事実」はなかったのかもしれない。あるいは、あったけれど、漱石はそのことを忘れてしまった、あるいは人だかりの原因を知らないままだったので、特に記憶にもとどめなかった可能性は誰にも否定できないのではあるまいか。

では、最後に風太郎が引用している『坊っちゃん』の記述。
これはフィクションの一節である。けれども、「事実」ではないのだろうか。後に漱石となる夏目金之助が実際に見た光景の描写ではないのだろうか。実際に見た光景ならば、「事実」ではないのだろうか。

ここで明らかになったことをまとめてみよう。

・ある出来事が「特定の出来事」となるためには、まず第一に、それを目撃-体験する人がいなければならない。

・その出来事は、目撃-体験された人によって、語られる(そうしてその語りを記述する人がいる)か、記述されなければならない。

・さらに、その「語り」や「記述」は第三者によって「事実」である、と判定されなければならない。

この三つの段階を経なければ、「事実」としてあとに残っていかないのだ。
ならば、この三つの段階を経て、晴れて「歴史的事実」として認定されたことがらのみを扱った記述と、事実と虚構をおりまぜた「歴史小説」は、どこまでちがっているのだろう。
明日はそのことを見てみよう。

(もしかしたら、ちがうことを書いているかもしれませんが)

(この項続く)


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