陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

人間のようなもの

2009-04-21 22:41:16 | weblog
先日までここで訳していたフィリップ・K・ディックの「変種第二号」はいかがでした? なかなかおもしろかったでしょう。いま手を入れているところなので、サイトにアップした段階で、もう一度読んでみてください。なるほどね、そういうことだったんだ、という部分と、え? ちょっとこれは……、という部分の両方があるかなあ。

ひとつ気になったのは、「変種」というのは、オリジナルタイプの「クロー」に対する「変種」ということなのだろうが、どうして人間型に変化させたのだろうか、ということだ。

クローは獲物の後ろからついてきて、追いつめ、殺戮する、という目的のために設計された。その任務をできるだけ効率的に遂行するためには、現在のクロー、するどい刃を回転させる金属球で充分のはずだ。ところがクローを怖れて、人間は地下にもぐってしまった。そこで獲物をつかまえるために、人間が集まって隠れている壕のなかに何とかして入り込もうと考えたわけだ。

おそらくは核シェルターも兼ねているであろう地下の掩蔽壕のなかに、どうしたら入りこめるか。

そこでの解決策が「人間そっくり」である。人間そっくりにすれば、人間も気を許して中に入れてくれるにちがいない、と考えたのだ。

ただし、「人間」にはさまざまな「特徴」がある。そのさまざまな特徴のなかで、機械の設計をした「クロー」の親玉は、人間があるものを「人間と見なす基準」は、それが「人間の姿かたちをしているかどうか」である、と判断したのである。

ちょうど、留守番をしている七匹の子ヤギたちに、何とかして家の扉を開けさせようとしているオオカミのようなものだ。子ヤギは前足を見せてくれ、という。さらに、声がちがう、という。そこでオオカミは手に小麦粉をまぶし、チョークを飲んで声をきれいにした。
つまり、子ヤギたちは「白い前足」と「きれいな声」を「お母さんと見なす基準」としたということだ。

もしクローの親玉が「たくみに言葉を操る能力」を「人間が人間と見なす基準」であると判断したとすれば、何を置いてもたくみに受け応えができる機械を送り込んだことだろう。あるいは人間に、サーモセンサーみたいなものがついていて、「暖かみ」を「人間が人間と見なす基準」としていたなら、変種は人肌の「機械」を送り込んだだろう。肌触り、におい、声、人間を構成する要素はさまざまだが、なによりも人間があるものを人間と見なすのは、「人間の姿かたちをしていること」のようだ。変種第一号の傷痍兵がたとえしゃべらなくても、ロシア兵たちは彼を受け入れたにちがいない。「姿かたち」はそれくらい雄弁なのだ。

ただ、変種たちには共通点がある。いずれも「無表情」ということだ。この作品は一種の「犯人探し」の要素もあるのだが、「犯人」には expressionless という単語が繰りかえしかぶせられている。人間の姿かたちをコピーすることはできても、「表情を作る」という能力は、彼らには真似ができなかったのだ。

こんな経験はないだろうか。
写真でしか知らない人というのは、どれだけ繰りかえし見ていても、もうひとつはっきりしない。たとえば坂本龍馬。写真技術の問題があるにせよ、わたしたちはあの写真はもう何度も見ていてよく知っているはずだが、彼がどんな顔をしているか、もうひとつわからない。道を歩いていても、きっとわからないだろう。

他人の卒業写真を見せられても、どうにも興味が持てないのは、そこに知った人がいないという以上に、はっきりしないせいのように思える。それぞれに顔がちがっているのはわかる。けれども、のっぺりと動かない写真では、いまひとつその人が「どんな顔をしているか」がよくわからない。

たとえ写真でも、人間の顔はかならず何らかの表情をまとっているはずだ。緊張した顔もあれば、「こう見せたい」という表情もあるだろう。楽しげだったり、疲れていたり。つまり、顔というのは「表情」あってのものだ、ということができる。

ところが動かない写真の表情は、やはり動かない。動くから表情なのかもしれない。
知っている人であれば、わたしたちはその写真を、自分の知っているさまざまな顔を重ね合わせて、補って見ている。だから「何でこんなに照れくさそうな顔をしているのだろう」とか、さすがに卒業式ともなると神妙な顔をしているな、などと、写真からはっきりとその表情を読みとることができるのだ。

ここで思い出すのは、佐々木正人の『からだ:認識の原点』(東京大学出版会)に出てきたこんなエピソードだ。

「戒厳令下チリ潜入」という映画を撮るために、亡命中だった映画監督のミゲル・リティンは、変装して母国チリに潜入することになった。変装の専門家の指導を受けて、度の強い眼鏡をかけ、ひげを剃り、ウルグアイ人からしゃべり方や身ぶりを教わる。それでも、変装の専門家はリティンに警告する。「笑うな。笑ったら死ぬぞ」

つまり、表情というのは、どれだけ変装をしようと、その人の「素の顔」を浮かび上がらせてしまうというのだ。

やはり、顔というのは実は表情であり、そうして動くから「表情」なのではあるまいか。そうして、わたしたちは静止画像としての顔を認識しているのではなく、一連の動きとして表情をとらえ、認識しているのではないだろうか。

だから、わたしたちが誰かと誰かを似ている、と思うのは、笑い方が似ているなどの表情の動きが似ているということなのだろうし、映画「マルコムX」のなかで、デンゼル・ワシントンがマルコムXそっくりに見えるのは、おそらく彼の演技力によるものなのだろう。

こう考えていくと、表情のない「人間そっくり」は、おそらくわたしたちにひどい違和感を覚えさせるにちがいない。

変種を作るとき、おそらくクローの親玉は、写真を元にしたにちがいない。写真は動かない。それを元に作った変種たちの顔も、当然動きようがない。元の写真と同じ表情を、常に貼り付けている。だから変種はしつこいくらいに「無表情」という言葉がかぶせられるのだろう。

ヘンドリックスはもちろん違和感を覚えたのだ。けれども、デイヴィッドはミュータントだから、そうして変種第二号は、戦時下という過酷な情況で生きてきたから、とその「無表情」を解釈していたにちがいない。そこには社会主義政権下のソヴィエト人、ということもあったろうが(アメリカ映画では、たいてい第二次大戦下のナチスや冷戦期のソ連兵は無表情に描かれている。そうでないのは「レッド・オクトーバー」のショーン・コネリー扮するラミウス艦長ぐらいのものではないか)。

最後の場面で、変種たちが続々と押し寄せてくる場面は怖ろしい。「人間の姿かたち」をしていても、表情を浮かべていない変種たちは、決定的に、「人間の姿かたち」とは言えないのだ。この微妙な差異こそが、恐ろしさの根幹にあるのかもしれない。

いやいや、頑張って明日くらいにはアップします。


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