第三回
「もう、クマちゃんってば、すごく遅いんだもの」生き生きとした子供っぽい声がした。母音の発音に、かすかなロンドンの下町訛りがある。
ミスター・ハットンは長身を折ると、動物が巣穴へ戻っていくときさながらの敏捷さで、車の中へさっとすべりこんだ。
「そうだったかい?」ドアを閉めながらそう言った。車が動き出す。「ぼくがいなくて寂しかったから、そんなふうに長く感じたのさ」シートに背をあずけ、深々と身を沈めた。心地よいぬくもりが身を包む。
「クマちゃん……」満ち足りたため息をひとつつくと、小さな頭をミスター・ハットンの肩にもたせかけてきた。魂を抜かれたように、斜め上から丸い童顔を見おろした。
「ドリス、きみはルイーズ・ケルアイユの肖像画にそっくりだ」ふさふさとした巻き毛を指で梳いた。
「どのひと、そのルイーズ・ケラ……なんとかって」ドリスの声が彼方から聞こえてくる。
「昔の人さ、もういない。私たちはだれでもいつかそのうち過去形で語られるようになるんだよ、それまでは……」
ミスター・ハットンは子供っぽい顔になんども口づけた。車は滞ることもなく先を急いでいく。目の前のガラスの向こうにあるマクナブの背は、石のように無表情、まるで彫像の後ろ姿のようだった。
「あなたの手」ドリスがささやいた。「ダメ、わたしにふれないで。電気にさわったみたいにビリッと来るから」
ミスター・ハットンは処女らしい稚い言葉遣いをことのほか愛おしく思っていた。人間が自分の身体に目覚めるのは、まことに遅いのである。
「電気はぼくの中にあるのではなくて、君の中にあるんだよ」彼はもう一度キスして、何度か名前をささやいた。ドリス、ドリス、ドリス。ウミケムシの学名はなんだったかな。さしだされた喉元、白い、剥きだしにされて、ナイフが当てられるのを待っている生け贄のような喉元にキスをしながら、彼は考えていた。ウミケムシは玉虫色の毛に覆われたソーセージだ。ひどく奇妙な。あるいは、ドリスはナマコ、驚くと、内と外がひっくり返るナマコかもしれない。どうにかしてまたナポリへ行かなくては。水族館だけでも見てくるのだ。海の生物というのはすばらしく、信じられないくらいに不思議なのだから。
「ああ、クマちゃん……」(こんどは動物学か。おれときたら、所詮、陸の動物だ。なんとバカバカしいジョークだ)「クマちゃん、わたし、すごく幸せ」
「ぼくもそうだよ」ミスター・ハットンはそう言う。本当に?
「だけど、これが悪いことじゃない、って思えたらいいのに。ねえ、教えて、クマちゃん、これはいいこと、それともまちがってるの」
「かわいいお嬢さん、ぼくも三十年前からそのことはずっと考えてるのさ」
「ふざけないで、クマちゃん。わたし、ほんとうに悪いことじゃないって知りたいの。わたしがここにあなたとこうしていて、わたしたちが愛し合っていて、そうして、あなたがわたしにふれると電気が流れたみたいになるのが、いいことなのかどうか」
「いいことか、だって? 性的抑圧より電気が流れたみたいになるほうがずっといいに決まってるじゃないか。フロイトを読むんだな。抑圧は悪魔のようなものだ」
「そんなんじゃ全然ダメ。どうして真剣に聞いてくれないの? ときどき、わたしがどうしようもないくらいにみじめな気分になってしまうことを、ちょっとでいいからわかってくれたらいいのに。ねえ、たぶん、地獄とかそういうものがあるんだわ。どうしたらいいのかしら。ときどき、もうあなたを愛するのをやめようと思うのよ」
「それができるのかな?」自分の誘惑の手管と口ひげの魅力に自信満々のミスター・ハットンはそう尋ねてみる。
「ダメなの。クマちゃんだって、わたしにそんなことできないのは知ってるでしょ。だけど、逃げてしまうことはできるかもしれない。あなたから隠れてしまうの。自分を閉じこめて、あなたのところへ行けないようにするの」
「かわいいおバカさん」彼は抱きしめる腕に力をこめた。
「ああ、ほんとにねえ、これが悪いことじゃなかったらいいのに。だけど、ときどき、そんなことどうだってよくなってしまう」
ミスター・ハットンはひどく心を動かされた。このかわいい生き物を護り、慈しんでやりたいような気がした。自分の頬を彼女の髪に押し当てて、しっかりと抱き合ったまま、黙ってすわっていた。車が加速したために、少し上下左右に揺れ、白い道と埃っぽい生け垣が、すごい勢いでたぐりよせられていた。
「さよなら、さようなら」
車は動きだし、加速すると、カーヴを回って消え、ドリスは十字路の標識のところに取り残された。キスとやさしい手がふれる電流が生み出した、めまいと力が抜けたような感覚が残っていた。深呼吸をひとつして、おもむろに背筋を伸ばすと、なんとか家へ向かって歩を進める力が湧いてきたように思う。これから1キロ近く歩いて帰らなければならないし、そのあいだにもっともらしい嘘も考えておかなくては。
ひとりになったミスター・ハットンは、急に耐えがたいほど退屈な気分に襲われているのに気がついた。
(この項つづく)
「もう、クマちゃんってば、すごく遅いんだもの」生き生きとした子供っぽい声がした。母音の発音に、かすかなロンドンの下町訛りがある。
ミスター・ハットンは長身を折ると、動物が巣穴へ戻っていくときさながらの敏捷さで、車の中へさっとすべりこんだ。
「そうだったかい?」ドアを閉めながらそう言った。車が動き出す。「ぼくがいなくて寂しかったから、そんなふうに長く感じたのさ」シートに背をあずけ、深々と身を沈めた。心地よいぬくもりが身を包む。
「クマちゃん……」満ち足りたため息をひとつつくと、小さな頭をミスター・ハットンの肩にもたせかけてきた。魂を抜かれたように、斜め上から丸い童顔を見おろした。
「ドリス、きみはルイーズ・ケルアイユの肖像画にそっくりだ」ふさふさとした巻き毛を指で梳いた。
「どのひと、そのルイーズ・ケラ……なんとかって」ドリスの声が彼方から聞こえてくる。
「昔の人さ、もういない。私たちはだれでもいつかそのうち過去形で語られるようになるんだよ、それまでは……」
ミスター・ハットンは子供っぽい顔になんども口づけた。車は滞ることもなく先を急いでいく。目の前のガラスの向こうにあるマクナブの背は、石のように無表情、まるで彫像の後ろ姿のようだった。
「あなたの手」ドリスがささやいた。「ダメ、わたしにふれないで。電気にさわったみたいにビリッと来るから」
ミスター・ハットンは処女らしい稚い言葉遣いをことのほか愛おしく思っていた。人間が自分の身体に目覚めるのは、まことに遅いのである。
「電気はぼくの中にあるのではなくて、君の中にあるんだよ」彼はもう一度キスして、何度か名前をささやいた。ドリス、ドリス、ドリス。ウミケムシの学名はなんだったかな。さしだされた喉元、白い、剥きだしにされて、ナイフが当てられるのを待っている生け贄のような喉元にキスをしながら、彼は考えていた。ウミケムシは玉虫色の毛に覆われたソーセージだ。ひどく奇妙な。あるいは、ドリスはナマコ、驚くと、内と外がひっくり返るナマコかもしれない。どうにかしてまたナポリへ行かなくては。水族館だけでも見てくるのだ。海の生物というのはすばらしく、信じられないくらいに不思議なのだから。
「ああ、クマちゃん……」(こんどは動物学か。おれときたら、所詮、陸の動物だ。なんとバカバカしいジョークだ)「クマちゃん、わたし、すごく幸せ」
「ぼくもそうだよ」ミスター・ハットンはそう言う。本当に?
「だけど、これが悪いことじゃない、って思えたらいいのに。ねえ、教えて、クマちゃん、これはいいこと、それともまちがってるの」
「かわいいお嬢さん、ぼくも三十年前からそのことはずっと考えてるのさ」
「ふざけないで、クマちゃん。わたし、ほんとうに悪いことじゃないって知りたいの。わたしがここにあなたとこうしていて、わたしたちが愛し合っていて、そうして、あなたがわたしにふれると電気が流れたみたいになるのが、いいことなのかどうか」
「いいことか、だって? 性的抑圧より電気が流れたみたいになるほうがずっといいに決まってるじゃないか。フロイトを読むんだな。抑圧は悪魔のようなものだ」
「そんなんじゃ全然ダメ。どうして真剣に聞いてくれないの? ときどき、わたしがどうしようもないくらいにみじめな気分になってしまうことを、ちょっとでいいからわかってくれたらいいのに。ねえ、たぶん、地獄とかそういうものがあるんだわ。どうしたらいいのかしら。ときどき、もうあなたを愛するのをやめようと思うのよ」
「それができるのかな?」自分の誘惑の手管と口ひげの魅力に自信満々のミスター・ハットンはそう尋ねてみる。
「ダメなの。クマちゃんだって、わたしにそんなことできないのは知ってるでしょ。だけど、逃げてしまうことはできるかもしれない。あなたから隠れてしまうの。自分を閉じこめて、あなたのところへ行けないようにするの」
「かわいいおバカさん」彼は抱きしめる腕に力をこめた。
「ああ、ほんとにねえ、これが悪いことじゃなかったらいいのに。だけど、ときどき、そんなことどうだってよくなってしまう」
ミスター・ハットンはひどく心を動かされた。このかわいい生き物を護り、慈しんでやりたいような気がした。自分の頬を彼女の髪に押し当てて、しっかりと抱き合ったまま、黙ってすわっていた。車が加速したために、少し上下左右に揺れ、白い道と埃っぽい生け垣が、すごい勢いでたぐりよせられていた。
「さよなら、さようなら」
車は動きだし、加速すると、カーヴを回って消え、ドリスは十字路の標識のところに取り残された。キスとやさしい手がふれる電流が生み出した、めまいと力が抜けたような感覚が残っていた。深呼吸をひとつして、おもむろに背筋を伸ばすと、なんとか家へ向かって歩を進める力が湧いてきたように思う。これから1キロ近く歩いて帰らなければならないし、そのあいだにもっともらしい嘘も考えておかなくては。
ひとりになったミスター・ハットンは、急に耐えがたいほど退屈な気分に襲われているのに気がついた。
(この項つづく)
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