パーティを計画している別の妻――ホストとなるはずの夫とは、多少良好な関係を築いているか、あるいは単に戦略家であるだけなのかもしれないが――はそれとは異なるやり方で切り出す。
「ねぇ、あなた」
すでに数人の名前が整然と並んでいるメモ帳から顔を上げて、そう言う。「良い考えがあるの。フランシス・クリアリィさんをお招きしたらどうかしら」
たったいま気づいたの、とでもいいたげな様子は、実際にはいつもフランシス・クリアリィを呼んでいるという事実からすれば妙な話なのだが、夫はさらに悪い提案(昔の同級生だの慈善興業で知り合ったすばらしい歌手だの)を怖れていたものだから、ほっとしてその矛盾に気がつかない。
「ああ、いいよ」
そう答えながら、妻の関心がこのどちらかといえば退屈な、古い同僚にあることをありがたく思う。
妻は夫の気が変わるまえに、フランシス・クリアリィに電話して、承諾をとりつけてしまうのだった。
そして、コールドウェル夫妻を呼んだらどうか、と聞かれたときには、ちょっと口を尖らせて見せる。
「あら、それだと同じ系列の人ばかりになると思わない? なにしろフランシス・クリアリィさんを呼ぶでしょう、パーティで派閥ができてしまうのって、失敗だと思うのよ」
「よくわからないな」
「まぁ、あなただって覚えてるでしょ? イタリア系の人たちを呼んだときのことよ。あの人たちったら、隅の方に陣取って、自分たちばかりで話してたじゃない……」
いずれのケースにせよ、結果は同じことだった。
パーティには、受け入れられなかったコールドウェル夫妻の穴埋めに、フランシス・クリアリィがやってくる。彼は抽象化したコールドウェル夫妻、夫妻の幻影だった。慎み深く、穏やかで、育ちの良い彼は、早くにやってきて、遅くまで残っていた。特別な貢献をすることはなかったが、主人にしてみれば、そちらをちらっと見るたびに、過去の仲間意識が胸を打つのを感じる。夜のいずれかの時点で、フランシス・クリアリィとコールドウェル夫妻の話をし、フランシスはヒュー・コールドウェルの最近の冒険譚を聞かせてくれるのだ。
普段は格別すばらしく話がうまいというわけではなかったが、ある特殊な領域で、フランシス・クリアリィは卓越した能力を持っていた。
逸話を受け売りする名手、その人に成り代わって快挙を聞かせてくれるのだ。
ヒュー・コールドウェルはひどい喘息を患っていて、話の途中で息を詰まらせたりあえいだりしがちなものだから、決してフランシスがやってみせてくれるほど、自分の真価を十分に発揮することはない。
実際、ヒュー・コールドウェルが自分の話をするときは、聞き手は、喘息持ちの生身の話し手の存在が邪魔になって、話から気を散らされてしまうのだ。
映画が舞台に取って替わったように、そしてラジオがコンサートホールに取って替わったように、現代の生活においてフランシス・クリアリィは、友人、ヒュー・コールドウェルに取って替わろうとしている、そして、そうすることによって、ヒューに栄誉をもたらすのだった。
ちょうど映画のスクリーン、年齢を重ねた女優がカメラとメイク係の魔法によって、皺は隠れ、若く、輝くばかりになって登場するスクリーンのようなものだ。あるいはラジオのような。ラジオのおかげで第一ヴァイオリン奏者の汗を目にすることもなく、交響曲に浸ることができる。
にもかかわらず、撮影済みの映画や録音済みの音楽のように、フランシス・クリアリィは、結局は憂鬱な効果をもたらしてしまうのだ。
フランシスの話をいつまでも聞いているのは、朝から映画に行くようなもの。疎外され、隔てられたような感覚が生じてくる。
やがて主人はその場を離れる。コールドウェルのことを知りたいという気持ちは、残像が再結合したような姿を見ているうちに、高まるどころか削がれてしまう、ちょうどディナーの前に間食をし過ぎて食欲がなくなってしまうように、あるいはフランシス・クリアリィの友人たちがリビングルームに『ひまわり』や『アルルの女』の複製画をかけていると、かつてその複製画は芸術への共感のシンボルであったはずなのに、ゴッホを愛する気持ちがそれによって削がれてしまうように。
けれども『アルルの女』の教訓は、ほとんどだれにも生かされることなく、ピカソの『白衣の女』でも同じ失敗を繰り返してしまうように、ヒュー・コールドウェルで教訓を得たにもかかわらず、別の機会には、フランシス・クリアリィに、妻が大嫌いなまた別の友だちの代役をさせようとするのだった。
しかも多くのパーティは、もっぱらフランシス・クリアリィ、男のこともあれば女のこともある、代役、お手頃な模造品によって構成されている。フランシス・クリアリィたちは、ルドンやルソーやルノアールの複製画の下、互いに親しく交わることだってある。用意してきた逸話を披露したり、だれかの言葉の引用したり、小話を言い換えたり。友好的で、決闘の介添人のように、決して攻撃を受けないのだ。
あとになって、パーティを主催した夫と妻は、そのときの様子を振り返ってみる。みんなが遅くまで残り、飲み、サンドウィッチだってすべて平らげたにもかかわらず、誰ひとり、すばらしく楽しんだとはいえなかった理由が、どうしてもはっきりとはわからない。
しかもパーティがうまくいかなかったことで、嫌みや非難を応酬する羽目になるどころか、ふたりは互いに引き寄せられるのである。客の悪口をこぼしながら、ふたりは毛布を引っ張り上げると抱き合って、お互い、相手がだれよりも好きなのだ、いや、むしろ自分たちが知っているほかのどんなカップルより、自分たちふたりが好きなのだ、と確かめ合うのだった。
(この項続く)
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