陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

H.G.ウェルズ 「水晶の卵」その2.

2007-02-14 21:58:43 | 翻訳
「水晶の卵」その2.

 肌の色の濃い青年はそれまでケイヴにじっと目を注いだまま黙っていた。それが初めて口を開いた。「五ポンド、払ったらいいじゃないですか」牧師は本気で言っているのか確かめるかのように青年を見やったあと、ふたたびミスター・ケイヴに視線を戻したのだが、ケイヴの顔はことさらに白く見えた。
「ずいぶん高いものなんですね」牧師はそう言いながらポケットに手を突っこんで、持ち金を数えた。三十シリングあまり(※1ポンドは20シリング)しか持っておらず、連れに援助を求めたのだが、その仲はずいぶん親しいようだった。そのようすを見てミスター・ケイヴは考えをまとめたらしく、落ちつかなげに、実は、これはまったくの売り物といっていいわけではないんです…、と言い出した。二人の客はそれには驚いて、値段を言う前にどうしてそう言ってくれなかったんだ、と尋ねた。それにはミスター・ケイヴもしどろもどろになって、言葉につまりながら、この水晶は今日の午後には引っこめるつもりだったんです、というのも買ってくださるんじゃないかと思われるお客様がいらっしゃったんで、と答えた。値をつりあげようとしているのだな、と感じた客は、店を出ようとした。だが、そのとき奧の戸が開いて、額に前髪を垂らし、目の小さな女が出てきた。

品のない顔つきをしてよく太った女で、ミスター・ケイヴよりも若く、はるかに大きなからだつきをしていた。どしんどしんと歩いて来たその顔は紅潮している。「もちろん水晶はお求めいただけますよ」それから言葉を続けた。「五ポンドもいただけるんなら十分じゃないか。あんたってひとはまったく何を考えてるんだか、ケイヴ、旦那がたのお求めを断るなんて」

割り込んできた妻にひどくうろたえたミスター・ケイヴは、眼鏡越しに怒りの目をそちらに向けて、それほどきつい調子でこそなかったが、わしの商売はわしのやり方でやらせてもらう、と言った。言い争いが始まる。ふたりの客はそれを興味津々、おもしろがりながら、ときおりミセス・ケイヴに加勢した。たいそう追いつめられたミスター・ケイヴは、相も変わらず、午前中に水晶の問い合わせがあったのだ、と支離滅裂なことを言い張るばかり、しだいにそれは痛々しいものになってきたのだった。だが、自分の主張だけは頑としてゆずらない。この奇妙な言い争いに決着をつけたのは、若い東洋人青年だった。二日したらまた来てみましょう、そうすればその謎の購入希望者にも公平なチャンスはあるというものだ。
「そうだね、そのときはわたしたちも五ポンドで譲ってもらうことにしよう」と牧師も言った。
ミセス・ケイヴは独断で、夫に代わって、相済みませんです、と謝った。「うちのひとはちょっとおかしいんですよ」客が出ていくと、ふたりはさきほどの出来事をめぐって、ありとあらゆる点で言い争ったのだった。

ミセス・ケイヴは夫に向かって、歯に衣を着せず言い募る。哀れな小さな男は、興奮のあまりぶるぶる震えながらも、ふたつのこと、まずほかの客を考慮しなければならないこと、一方、水晶には十ギニー(※1ギニーは1,05ポンド)の値打ちがあるのだということをごちゃまぜにしながら言いつづけた。
「じゃ、なんでまたあんたは五ポンドなんて言ったのさ」
「おれの店はおれのやり方でやらせてもらう!」

ミスター・ケイヴは妻の連れ子の娘と息子と一緒に暮らしており、その晩、夕食の席で、この取引の話が蒸し返された。ミスター・ケイヴの商いのやり方を高く評価している者などだれひとりいなかったために、父親がやったことは愚かしさの極みであるように思われた。

「あんたは前にもあの水晶を売らなかったような気がするんだけど」そういった義理の息子は、だらしない態度の、分別に欠ける十八歳である。

「だけど五ポンドよ」今度は義理の娘だが、二十六歳になるこの娘は理屈っぽいことこのうえない。

それに対するミスター・ケイヴの答えは情けないもの。わしの商売のことなら、だれよりもわしがよくわかっとる、ともぐもぐとつぶやくだけだった。子供たちはまだ食べ終わっていない父親に、さっさと店を片づけろよ、と店仕舞いに追いやったので、ミスター・ケイヴの耳はかっと熱くなり、眼鏡の奧では腹立ちの涙が浮かんだ。いったいなんだってあの水晶を陳列窓に置きっぱなしにしてしまったのだろう。まったくバカなことをしたものだ。それが目下のところ最大の問題だ。さしあたってどうすれば売らずにすむか、何の策も思い浮かばない。

食事がすむと、娘と息子はめかしこんで出かけ、妻は二階に引き上げて、あれやこれや水晶の取引について思いを巡らしながら、砂糖とレモンをちょっとずつ垂らしたお湯をすすった。ミスター・ケイヴは店に入ると、夜更けまでそこから出なかった。表向きは金魚鉢の飾りの岩を作るということにしていたのだが、ほんとうは秘密の目的があったのだ。それがなんであるかはやがて明らかになるだろう。

翌日、ミセス・ケイヴは水晶が陳列窓から、釣りの古本の奧に移してあるのを見つけた。目立つ場所に水晶を戻しておく。だが、そのことでさらに夫とやりあうつもりはなかった、というのも神経性の頭痛のために、口げんかの気力もなかったのだ。ミスター・ケイヴはずっと、無気力なようすだった。不愉快なまま、時間だけがたっていった。ミスター・ケイヴはどちらかといえばふだんよりいっそう心ここにあらず、といったようすで、さらにめずらしいことに興奮してもいるようだった。午後になって妻が決まってとる昼寝のあいだに、水晶をふたたび陳列窓から移動させた。

つぎの日はミスター・ケイヴはとある病院付属の学校にサメを届けにいかなければならなかった。その学校では解剖に必要だったのだ。夫が家を出ると、ミセス・ケイヴはまた水晶のこと、それから思いがけないもうけものとなるであろう五ポンドにふさわしい使い道のことを考え始めた。すでにいくつか好ましい案はひねり出してある。自分のために、グリーンの絹のドレス、リッチモンドへの旅行、そのとき店の入り口の呼び鈴が鳴って、店に出ていった。客は試験監督で、先日注文しておいたカエルがまだ届いていない、と苦情を言いに来たのである。ミセス・ケイヴは夫がこの種のものを扱うことを好ましく思っていなかった。紳士は、いささか攻撃的な気分ではあったが、ほんの数言、交わしただけで、引き下がった――紳士に関するかぎり、その態度は市民としていささかも問題はなかったのだが。やがてミセス・ケイヴの目は自然に陳列窓の方へ向かった。水晶がそこにあるということは、五ポンドと自分の夢が保証されたように思えるからである。ところがなんたることか、驚いたことに水晶はそこになかったのだ。

ミセス・ケイヴはカウンターの内側のロッカーにまわった。その前日には、そこに置いてあったのを見つけたのである。だがそこにもない。すぐに店のなかを必死で探し回った。

(この項つづく)


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