陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ウィラ・キャザー 「ポールの場合」その3.

2007-03-08 22:11:39 | 翻訳
「ポールの場合」その3.

 一方、ポールの方は口笛でオペラ『ファウスト』の「兵士の合唱」を吹きながら、丘を駆けおりた。ときおり急に振り返っては、教師のだれかがそこらへんで、こんなにも弾むような心持ちでいる自分を、歯がみしながら見ているのではないか、と確かめてしまうのだった。

すでに夕方が近く、その夜は地元の「カーネギー・ホール」で案内係のアルバイトがある日だったので、晩ご飯を食べに家に帰るのはよそうと思った。コンサートホールに着いてみると、扉はまだ閉まっており、外は寒かったので、美術館に行ってみることにする。そうした時間はいつでも閑散としている美術館には、ラフィーリのパリ市街を描いた明るい色彩の習作が何点かと、軽やかな青で描かれたヴェニスの風景画がひとつかふたつあって、それを見るといつもわくわくしてくるのだった。美術館には守衛、片目に黒い眼帯を当てもう片方の目は閉じている老人が、隅っこに坐って膝に新聞をのせているだけでほかにはだれもいなかったので、ポールはうれしかった。その場所を独り占めして意気揚々と歩き回り、吐息と一緒に口笛を漏らしたりした。やがてリコの青い作品の前に腰を下ろし、夢中になって見入った。ふと我に返ると、七時を回っている。大急ぎで立ち上がり、階段を駆け下りて、台座からじっと眺めているアウグストゥスにしかめっつらで応え、階段の上にいるミロのヴィーナスには卑猥な仕草をしながら脇を抜けていった。

 ポールが案内係専用の更衣室についたときには、もう六人ほどの少年たちがそこにいて、ポールもあわてて制服を着こんだ。その制服はめずらしくポールの体にぴったりとくるもので、実際、自分でもよく似合っていると思っていた。ゆとりのない直線断ちの上着は、ポールの薄い胸板を際立たせるもので、そのことをポールはひどく気にしてはいたのだけれど。着替えをしていると、あたり一帯にチューニングしている弦の音や、調整のために吹く管楽器のファンファーレが響いてきて、いつでもポールの胸は高鳴ってくるのだった。だが、今夜のポールはいささか動転していたようで、ほかの男の子たちをからかったりふざけかかったりしたために、少年たちは、いい加減にしろよお前、どうかしてるぞ、と言うと、床に押し倒して、馬乗りになった。

 動きを封じられてやっと落ち着きを取りもどしたポールは、早い時間からやってくる客を席に案内しようとホールの表へ走っていった。彼は案内係の鏡だった。微笑を浮かべつつ慇懃な物腰で通路を行き来する。どんなことも、彼にかかってはお手のものだった。メッセージを届けたり、プログラムを持っていったりすることが、まるで人生最大の喜びであるかのように振る舞うのだ。そのために彼が受け持つエリアの客は、だれもがみな彼のことを魅力的な少年だと感じ、客である自分をよく覚えていて、敬意を持って遇してくれていると感じるのだった。ホールが詰まってくるにつれ、ポールもますます生き生きとして、活動的になってくるし、頬にも唇にも血の気がさしてくるのだった。まるでこれが盛大な歓迎会で、ポールが主催者とでもいうように。

ちょうど、楽団員たちが出てきて所定の場所に着いたとき、彼の英語の教師が、著名な製造業者が押さえているシーズンチケットを手にやってきた。彼女はポールにチケットを渡すときに、自分の感じた決まり悪さを尊大な態度でごまかそうとしたのだが、それはのちに、愚かなことをしたものだと思うようになる。一瞬、ポールもビックリし、事実、追い出したい気分になった。なんでまたこんなに立派な人が大勢集まる華やかな場所に、この人はやってきたんだろう。先生を上から下まで眺めて、しかるべき服装をしていないことを見て取ると、こんな上着で一階席に座るなんて、こいつはバカなんじゃないか、と考えた。このチケットも、おそらく何かのお礼で手に入れたのだろう、と席へ案内しながら考え、さらに、この女がここに座る権利があるんだったら、自分だってあるな、と考えたのだった。

 交響曲が始まると、ポールは後部座席に身を沈め、ほっとして長いため息をひとつつくと、さきほどリコの絵の前で我を忘れたように、また夢中になった。交響曲それ自体が特別に重要というのではなく、楽器が最初のため息をもらした瞬間に、なにか、彼のうちに喜ばしく力強い生気のようなものが沸き起こってくるのだ。アラビアンナイトに出てくる漁師が壺のなかで見つけた魔神のように、心のなかであがいていた何かを解き放ったかのように。すぐに、生きる喜びに満たされた。目の前で光が舞い、コンサートホールは想像を絶する華麗な炎が燃え上がった。ソプラノの独唱者が登場すると、ポールは教師がそこにいるという不快感も忘れて、こうした有名な音楽家がかならずもたらしてくれる、特別な興奮に、我身を委ねるのだった。

独唱者はたまたまドイツ人女性で、決してもう若いと呼べるような年齢でもなく、子供をたくさん抱えた母親でもあったのだけれど、サテンの豪華なドレスに身を包み、ティアラをつけていた。とりわけ高い位置にまで到達した人特有の言葉にできない雰囲気、世界が彼女にスポットライトを当てているかのようだ、とポールの目には映ったのだが、正真正銘の叙情曲の女王といった風格があった。

 コンサートが終わるとポールはいつも苛立ち、眠りに就くまで惨めな気分に襲われるのだが、今夜はふだんよりいっそう落ち着かなかった。これではとてもリラックスなんてできそうもない、生きていると呼べるものがあるとすれば、ただひとつ、この甘美な興奮だけなのに、それを諦めて手放してしまうことなどできはしない、とポールは感じたのだった。最後の曲のあいだに、ポールはそっと抜けだし、更衣室で服を着替えて、独唱者の馬車が停まっている裏口に回っていった。そうして歩道を行きつ戻りつしながら独唱者が出てくるのを待ったのだった。

(この項つづく)


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