陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロアルド・ダール「発端と悲劇的結末」その3.

2009-10-06 23:01:06 | 翻訳
その3.

「どうしましょう!」枕からがばっと身を起こして悲鳴を上げた。「オットーが生まれたときもちょうど同じ、名前のことを聞かれたんです! っていうことは、あの子もまもなく死んでしまうのね! いますぐ洗礼をしてやってください!」

「まあ、落ち着いて」医者はそう言うと、両肩を優しく押さえた。「ずいぶんおかしなことをおっしゃる。そんなことはありませんよ。わたしはただの詮索好きな年寄りなんです。それだけのこと。名前の話をするのは楽しいものでしょう? アドルフスというのは実にいい名前じゃありませんか。わたしのお気に入りのひとつだ。さあ、お坊ちゃんのお出ましですよ」

 宿屋の女房が大きな胸の上に赤ん坊を抱えるようにして、部屋を横切ってベッドの方までやってきた。「さあ、ちっちゃな美男子さんの登場だよ!」顔を輝かせて叫んだ。「抱っこしてあげたいだろう、奥さん? あたしがそっちへ連れてってあげようか」

「赤ちゃんはちゃんとくるんでありますよね?」医者はたずねた。「ここはひどく寒いですからね」赤ん坊は白い毛糸のショールにしっかりとくるまれていて、小さなピンク色の顔だけがのぞいている。宿屋の女房は、赤ん坊をベッドに寝ている母親の傍らにそっと置いた。「さあ、ママだよ。これであんたも寝たまんま、心ゆくまで赤ちゃんを眺められるよ」

「あなたもきっと夢中になりますよ」医者はそう言うと、にっこりと笑った。「元気なかわいいお子さんですよ」

「まあ、この手のかわいいこと!」宿屋の女房は嘆息をもらした。「このすんなりした形のいい指を見てごらんよ」

だが母親は動こうとしない。そちらを見ようと頭を動かすことすらしなかった。

「さあさあ」宿屋の女房は声を強めた。「かみつきゃしないよ!」

「見るのが怖いんです。今度生まれた赤ちゃんは元気だ、なんてふりは、わたしにはできない」

「バカなことをお言いじゃないよ」

 ゆっくりと母親は頭を動かして、傍らの、枕に横たわる小さな純真無垢の顔を見やった。

「この子がわたしの赤ちゃん?」

「もちろんだよ」

「でも……ああ……なんてかわいいんでしょう」

 医者はきびすを返してテーブルの方へ歩いていくと、診察道具をかばんにしまい始めた。母親は横になったまま赤ん坊に見入り、笑みを浮かべ、そっと赤ん坊にふれ、満足の吐息をもらしている。

「こんにちは、アドルフス」とささやいた。「こんにちは、わたしのちっちゃなアドルフ……」

「シィーッ!」宿屋の女房が言った。「聞こえるかい? 旦那さんが来たよ」

医者は戸口まで歩いていき、ドアを開けて廊下をのぞいた。

「ヒトラーさんですか」

「そうです」

「お入りください」

 深緑色の制服に身を包んだ小柄な男が、部屋に静かに入ってくると、あたりを見回した。

「おめでとうございます」医者が言った。「男のお子さんですよ」

 男は左右にぴんと張った、ひどく立派なくちひげのもちぬしだった。フランツ・ヨーゼフ皇帝にならって、入念に手を入れたものらしい。しかもビールの臭いがぷんぷんしていた。

「息子か?」

「そうです」

「どんな様子だ」

「お元気ですよ。奥様もお元気です」

「結構」

父親となった男は、奇妙な、小さく跳ねるような足取りで、妻が寝ているベッドの方へ歩いていった。「さあ、クララ」口ひげの下から笑いかけた。「どうだった?」かがみ込んで赤ん坊を見やっている。それからいっそう深く腰を曲げた。素早い、ぎこちない仕草で自分の顔を、赤ん坊の間近、三十センチあたりまで近づける。妻はそのすぐ横で枕の上に頭をよこたえたまま、懇願するようなまなざしで夫を見上げていた。

「この子はそれはそれは立派な肺を持ってるよ」宿屋の女房は断言する。「この子がこの世に出てきたとき、どんだけ大きな声を出したか聞いとかなきゃ」

「そうは言ってもな、クララ……」

「何ですの、あなた」

「こいつはオットーよりもまだちっぽけじゃないか」

医者は慌てて二、三歩近寄ってきた。

「このお子さんにはどこも問題はありませんよ」

ゆっくりと夫は体を起こし、ベッドから離れて、医者の方に向き直った。困惑し、打ちひしがれた表情を浮かべていた。「嘘を言ってもらっちゃこまりますよ、先生」と彼は言った。「どうなるかわかってるんです。またおんなじことの繰りかえしだ」

「いや、わたしの言うことを聞いてください」医者は言った。

「だが、あんただって他の子がどうなったか知ってるんでしょう、先生」

「他のお子さんのことは、ひとまずお忘れになってください、ヒトラーさん。このお子さんに賭けてあげてください」

「こいつはえらくちっちゃいし、弱そうじゃないか!」

「ヒトラーさん。お坊ちゃんはたったいま、生まれたばかりなんです」

「それにしたって……」

「あんた、いったい何するつもりなんだい!」宿屋の女房が悲鳴をあげた。「この子をどうにかしようとするなんて!」

「いい加減にしなさい」医者は厳しい声を出した。

 母親はむせび泣いていた。全身を震わせて泣いていたのだった。

 医者は夫の方へ歩いていき、肩に手をかけた。「奥さんを大事にしてあげてください」とそっとささやいた。

「どうか。何よりもそれが大切なんです」肩に置いた手に力をいれて強くつかむと、ベッドの方へそれとなく押しやった。夫は逡巡している。医者は、早く行ってあげなさい、とさらに指に力をこめた。しぶしぶながら、やっと夫はかがみ込み、妻の頬に軽くキスをした。

「何とかなるさ、クララ」彼は行った。「泣くのはおよし」

「わたし、どうかこの子を生かしてください、って一生懸命お祈りしてきたのよ、アロイス」

「ああ」

「もう何ヶ月間も、毎日毎日教会に行って、ひざまずいて、この子だけはどうか生かしておいてくださいって」

「ああ、クララ、そうだったな」

「三人でたくさん、もうこれ以上わたし、耐えられない。わかるでしょう?」

「もちろんだ」

「この子、生きていけるわよね、アロイス。絶対、絶対……ああ、神様、どうかこの子にご加護をお与えください……」



The End




(※後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)




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