その3.
「どうしましょう!」枕からがばっと身を起こして悲鳴を上げた。「オットーが生まれたときもちょうど同じ、名前のことを聞かれたんです! っていうことは、あの子もまもなく死んでしまうのね! いますぐ洗礼をしてやってください!」
「まあ、落ち着いて」医者はそう言うと、両肩を優しく押さえた。「ずいぶんおかしなことをおっしゃる。そんなことはありませんよ。わたしはただの詮索好きな年寄りなんです。それだけのこと。名前の話をするのは楽しいものでしょう? アドルフスというのは実にいい名前じゃありませんか。わたしのお気に入りのひとつだ。さあ、お坊ちゃんのお出ましですよ」
宿屋の女房が大きな胸の上に赤ん坊を抱えるようにして、部屋を横切ってベッドの方までやってきた。「さあ、ちっちゃな美男子さんの登場だよ!」顔を輝かせて叫んだ。「抱っこしてあげたいだろう、奥さん? あたしがそっちへ連れてってあげようか」
「赤ちゃんはちゃんとくるんでありますよね?」医者はたずねた。「ここはひどく寒いですからね」赤ん坊は白い毛糸のショールにしっかりとくるまれていて、小さなピンク色の顔だけがのぞいている。宿屋の女房は、赤ん坊をベッドに寝ている母親の傍らにそっと置いた。「さあ、ママだよ。これであんたも寝たまんま、心ゆくまで赤ちゃんを眺められるよ」
「あなたもきっと夢中になりますよ」医者はそう言うと、にっこりと笑った。「元気なかわいいお子さんですよ」
「まあ、この手のかわいいこと!」宿屋の女房は嘆息をもらした。「このすんなりした形のいい指を見てごらんよ」
だが母親は動こうとしない。そちらを見ようと頭を動かすことすらしなかった。
「さあさあ」宿屋の女房は声を強めた。「かみつきゃしないよ!」
「見るのが怖いんです。今度生まれた赤ちゃんは元気だ、なんてふりは、わたしにはできない」
「バカなことをお言いじゃないよ」
ゆっくりと母親は頭を動かして、傍らの、枕に横たわる小さな純真無垢の顔を見やった。
「この子がわたしの赤ちゃん?」
「もちろんだよ」
「でも……ああ……なんてかわいいんでしょう」
医者はきびすを返してテーブルの方へ歩いていくと、診察道具をかばんにしまい始めた。母親は横になったまま赤ん坊に見入り、笑みを浮かべ、そっと赤ん坊にふれ、満足の吐息をもらしている。
「こんにちは、アドルフス」とささやいた。「こんにちは、わたしのちっちゃなアドルフ……」
「シィーッ!」宿屋の女房が言った。「聞こえるかい? 旦那さんが来たよ」
医者は戸口まで歩いていき、ドアを開けて廊下をのぞいた。
「ヒトラーさんですか」
「そうです」
「お入りください」
深緑色の制服に身を包んだ小柄な男が、部屋に静かに入ってくると、あたりを見回した。
「おめでとうございます」医者が言った。「男のお子さんですよ」
男は左右にぴんと張った、ひどく立派なくちひげのもちぬしだった。フランツ・ヨーゼフ皇帝にならって、入念に手を入れたものらしい。しかもビールの臭いがぷんぷんしていた。
「息子か?」
「そうです」
「どんな様子だ」
「お元気ですよ。奥様もお元気です」
「結構」
父親となった男は、奇妙な、小さく跳ねるような足取りで、妻が寝ているベッドの方へ歩いていった。「さあ、クララ」口ひげの下から笑いかけた。「どうだった?」かがみ込んで赤ん坊を見やっている。それからいっそう深く腰を曲げた。素早い、ぎこちない仕草で自分の顔を、赤ん坊の間近、三十センチあたりまで近づける。妻はそのすぐ横で枕の上に頭をよこたえたまま、懇願するようなまなざしで夫を見上げていた。
「この子はそれはそれは立派な肺を持ってるよ」宿屋の女房は断言する。「この子がこの世に出てきたとき、どんだけ大きな声を出したか聞いとかなきゃ」
「そうは言ってもな、クララ……」
「何ですの、あなた」
「こいつはオットーよりもまだちっぽけじゃないか」
医者は慌てて二、三歩近寄ってきた。
「このお子さんにはどこも問題はありませんよ」
ゆっくりと夫は体を起こし、ベッドから離れて、医者の方に向き直った。困惑し、打ちひしがれた表情を浮かべていた。「嘘を言ってもらっちゃこまりますよ、先生」と彼は言った。「どうなるかわかってるんです。またおんなじことの繰りかえしだ」
「いや、わたしの言うことを聞いてください」医者は言った。
「だが、あんただって他の子がどうなったか知ってるんでしょう、先生」
「他のお子さんのことは、ひとまずお忘れになってください、ヒトラーさん。このお子さんに賭けてあげてください」
「こいつはえらくちっちゃいし、弱そうじゃないか!」
「ヒトラーさん。お坊ちゃんはたったいま、生まれたばかりなんです」
「それにしたって……」
「あんた、いったい何するつもりなんだい!」宿屋の女房が悲鳴をあげた。「この子をどうにかしようとするなんて!」
「いい加減にしなさい」医者は厳しい声を出した。
母親はむせび泣いていた。全身を震わせて泣いていたのだった。
医者は夫の方へ歩いていき、肩に手をかけた。「奥さんを大事にしてあげてください」とそっとささやいた。
「どうか。何よりもそれが大切なんです」肩に置いた手に力をいれて強くつかむと、ベッドの方へそれとなく押しやった。夫は逡巡している。医者は、早く行ってあげなさい、とさらに指に力をこめた。しぶしぶながら、やっと夫はかがみ込み、妻の頬に軽くキスをした。
「何とかなるさ、クララ」彼は行った。「泣くのはおよし」
「わたし、どうかこの子を生かしてください、って一生懸命お祈りしてきたのよ、アロイス」
「ああ」
「もう何ヶ月間も、毎日毎日教会に行って、ひざまずいて、この子だけはどうか生かしておいてくださいって」
「ああ、クララ、そうだったな」
「三人でたくさん、もうこれ以上わたし、耐えられない。わかるでしょう?」
「もちろんだ」
「この子、生きていけるわよね、アロイス。絶対、絶対……ああ、神様、どうかこの子にご加護をお与えください……」
(※後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)
「どうしましょう!」枕からがばっと身を起こして悲鳴を上げた。「オットーが生まれたときもちょうど同じ、名前のことを聞かれたんです! っていうことは、あの子もまもなく死んでしまうのね! いますぐ洗礼をしてやってください!」
「まあ、落ち着いて」医者はそう言うと、両肩を優しく押さえた。「ずいぶんおかしなことをおっしゃる。そんなことはありませんよ。わたしはただの詮索好きな年寄りなんです。それだけのこと。名前の話をするのは楽しいものでしょう? アドルフスというのは実にいい名前じゃありませんか。わたしのお気に入りのひとつだ。さあ、お坊ちゃんのお出ましですよ」
宿屋の女房が大きな胸の上に赤ん坊を抱えるようにして、部屋を横切ってベッドの方までやってきた。「さあ、ちっちゃな美男子さんの登場だよ!」顔を輝かせて叫んだ。「抱っこしてあげたいだろう、奥さん? あたしがそっちへ連れてってあげようか」
「赤ちゃんはちゃんとくるんでありますよね?」医者はたずねた。「ここはひどく寒いですからね」赤ん坊は白い毛糸のショールにしっかりとくるまれていて、小さなピンク色の顔だけがのぞいている。宿屋の女房は、赤ん坊をベッドに寝ている母親の傍らにそっと置いた。「さあ、ママだよ。これであんたも寝たまんま、心ゆくまで赤ちゃんを眺められるよ」
「あなたもきっと夢中になりますよ」医者はそう言うと、にっこりと笑った。「元気なかわいいお子さんですよ」
「まあ、この手のかわいいこと!」宿屋の女房は嘆息をもらした。「このすんなりした形のいい指を見てごらんよ」
だが母親は動こうとしない。そちらを見ようと頭を動かすことすらしなかった。
「さあさあ」宿屋の女房は声を強めた。「かみつきゃしないよ!」
「見るのが怖いんです。今度生まれた赤ちゃんは元気だ、なんてふりは、わたしにはできない」
「バカなことをお言いじゃないよ」
ゆっくりと母親は頭を動かして、傍らの、枕に横たわる小さな純真無垢の顔を見やった。
「この子がわたしの赤ちゃん?」
「もちろんだよ」
「でも……ああ……なんてかわいいんでしょう」
医者はきびすを返してテーブルの方へ歩いていくと、診察道具をかばんにしまい始めた。母親は横になったまま赤ん坊に見入り、笑みを浮かべ、そっと赤ん坊にふれ、満足の吐息をもらしている。
「こんにちは、アドルフス」とささやいた。「こんにちは、わたしのちっちゃなアドルフ……」
「シィーッ!」宿屋の女房が言った。「聞こえるかい? 旦那さんが来たよ」
医者は戸口まで歩いていき、ドアを開けて廊下をのぞいた。
「ヒトラーさんですか」
「そうです」
「お入りください」
深緑色の制服に身を包んだ小柄な男が、部屋に静かに入ってくると、あたりを見回した。
「おめでとうございます」医者が言った。「男のお子さんですよ」
男は左右にぴんと張った、ひどく立派なくちひげのもちぬしだった。フランツ・ヨーゼフ皇帝にならって、入念に手を入れたものらしい。しかもビールの臭いがぷんぷんしていた。
「息子か?」
「そうです」
「どんな様子だ」
「お元気ですよ。奥様もお元気です」
「結構」
父親となった男は、奇妙な、小さく跳ねるような足取りで、妻が寝ているベッドの方へ歩いていった。「さあ、クララ」口ひげの下から笑いかけた。「どうだった?」かがみ込んで赤ん坊を見やっている。それからいっそう深く腰を曲げた。素早い、ぎこちない仕草で自分の顔を、赤ん坊の間近、三十センチあたりまで近づける。妻はそのすぐ横で枕の上に頭をよこたえたまま、懇願するようなまなざしで夫を見上げていた。
「この子はそれはそれは立派な肺を持ってるよ」宿屋の女房は断言する。「この子がこの世に出てきたとき、どんだけ大きな声を出したか聞いとかなきゃ」
「そうは言ってもな、クララ……」
「何ですの、あなた」
「こいつはオットーよりもまだちっぽけじゃないか」
医者は慌てて二、三歩近寄ってきた。
「このお子さんにはどこも問題はありませんよ」
ゆっくりと夫は体を起こし、ベッドから離れて、医者の方に向き直った。困惑し、打ちひしがれた表情を浮かべていた。「嘘を言ってもらっちゃこまりますよ、先生」と彼は言った。「どうなるかわかってるんです。またおんなじことの繰りかえしだ」
「いや、わたしの言うことを聞いてください」医者は言った。
「だが、あんただって他の子がどうなったか知ってるんでしょう、先生」
「他のお子さんのことは、ひとまずお忘れになってください、ヒトラーさん。このお子さんに賭けてあげてください」
「こいつはえらくちっちゃいし、弱そうじゃないか!」
「ヒトラーさん。お坊ちゃんはたったいま、生まれたばかりなんです」
「それにしたって……」
「あんた、いったい何するつもりなんだい!」宿屋の女房が悲鳴をあげた。「この子をどうにかしようとするなんて!」
「いい加減にしなさい」医者は厳しい声を出した。
母親はむせび泣いていた。全身を震わせて泣いていたのだった。
医者は夫の方へ歩いていき、肩に手をかけた。「奥さんを大事にしてあげてください」とそっとささやいた。
「どうか。何よりもそれが大切なんです」肩に置いた手に力をいれて強くつかむと、ベッドの方へそれとなく押しやった。夫は逡巡している。医者は、早く行ってあげなさい、とさらに指に力をこめた。しぶしぶながら、やっと夫はかがみ込み、妻の頬に軽くキスをした。
「何とかなるさ、クララ」彼は行った。「泣くのはおよし」
「わたし、どうかこの子を生かしてください、って一生懸命お祈りしてきたのよ、アロイス」
「ああ」
「もう何ヶ月間も、毎日毎日教会に行って、ひざまずいて、この子だけはどうか生かしておいてくださいって」
「ああ、クララ、そうだったな」
「三人でたくさん、もうこれ以上わたし、耐えられない。わかるでしょう?」
「もちろんだ」
「この子、生きていけるわよね、アロイス。絶対、絶対……ああ、神様、どうかこの子にご加護をお与えください……」
The End
(※後日手を入れてサイトにアップしますのでお楽しみに)
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