第五回
翌朝、フォスター夫人は早くに目が覚め、八時半には準備をすませて階下におりていた。
九時を少しまわったところで、夫が姿を見せた。「コーヒーをいれてくれないか」
「ごめんなさい、あなた。でも、クラブではおいしい朝ご飯の用意ができているはずですわ。車ももう来ています。待ってるんですのよ。わたしも準備はすっかり整っています」
ふたりは玄関ホールに立っていた――このところふたりが顔を合わせているのはいつも玄関ホールのようだった――夫人の方は帽子を被り、コートを着こみ、ハンドバッグを手にしており、フォスター氏はエドワード七世時代ふうの風変わりな仕立ての、襟の高いジャケットを着ている。「荷物はどうしたんだ」
「空港にあります」
「ああ、そうだったな」夫は言った。「もちろんそうだ。クラブに送ってくれるつもりなら、そろそろ出かけた方がいいな?」
「そうしましょう」夫人の声は悲鳴に近かった。「さあ、行きましょう――お願い」
「葉巻を何本か取ってこなくては。すぐに行くよ。先に行ってなさい」
夫人は外に出て、運転手が立っているところへ向かった。夫人が来たのを見て運転手がドアをあけた。
「いま何時?」夫人は運転手に聞いた。
「じき九時十五分になります」
フォスター氏は五分ほどたってから出てき、のろのろと階段を降りるその姿を夫人は見た。あんなふうに細くてぴったりしたズボンをはいていると、まるで山羊の脚みたい。昨日と同じように途中で立ち止まって、空気のにおいを嗅ぎ、空模様を確かめる。空は晴天とまではいかなかったが、霧の合間から一条の陽の光が差しこんでいた。
「今日は君にも運がめぐってくるようだな」夫人の隣に乗り込みながらそう言った。
「急いで、お願い」夫人が運転手に声をかける。「膝掛けなんてどうでもいいわ、わたしがやります。急いで出てちょうだい。遅くなったわ」
運転手は運転席に戻ると、エンジンをかけた。
「しまった」急にフォスター氏が声を上げた。「運転手、ちょっと待ってくれ」
「どうしたんですの、あなた」夫はオーヴァーのポケットをあちこちさぐっている。
「君から渡してもらおうと、エレンにプレゼントを用意していたんだ。おやおや、いったいどこにいってしまったんだ。家を出るときは確かに手に持っていたと思ったんだが」
「そんなもの何も持っていらっしゃいませんでしたわ。どんなプレゼントなんですの?」
「小さな箱で白い紙に包んであった。昨日、君に渡すつもりで忘れていたんだ。今日こそはちゃんと渡しておかなけりゃ」
「小さな箱!」フォスター夫人は悲鳴をあげた。「小さな箱なんて見たこともありませんわ」それから後部座席を死にものぐるいで探し始めた。
夫はなおもポケットを探った。それからコートのボタンを外し、ジャケットのあちこちを叩きだした。「くそっ。寝室に忘れてきたんだ。すぐ戻る」
「まあ、そんな。時間がないんですのよ。そんなものどうだっていいじゃありませんか。郵便で送ればすむことですわ。どうせまたらちもない櫛かなんかでしょう、あなたいつもあの子に櫛をあげるんだから」
「櫛のどこが悪いんだ、教えてくれ」その怒りがあまりに激しかったので、一瞬、夫人は自分の問題を忘れてしまった。
「そんな意味じゃなかったんです、ほんとうよ。でも……」
「ここで待っていなさい」有無を言わさぬ調子で言った。「取ってくるから」
「急いでね、あなた。どうか、ほんとうに急いでちょうだい」
夫人は座ったまま、ひたすら待ち続けた。
「運転手さん、いま何時?」
運転手は腕時計を確かめた。「そろそろ九時半になります」
「空港には一時間で着けるわね?」
「そのぐらいで行けると思いますよ」
そのとき、不意にフォスター夫人は何か角張った白いものが、夫の座っていた座席の隙間から顔を出しているのに気がついた。手を伸ばして引っぱりだしてみると、紙で包んだ小箱である。そのとき、夫人にはどうしても、まるで人の手でむりやり奧まで押しこめられたように思えてならなかった。
「ここにあったわ!」夫人は叫んだ。「見つかったわ。ああ、なんてことでしょう、あの人ったら見つかるまで戻ってこないつもりなのよ! 運転手さん、すぐに――急いで家まで行って、あの人にすぐにくるよう言ってくださいな」運転手は、いかにもアイルランド系という、薄い、きかん気らしい口元をした男で、そうしたことはどうでもよさそうだったが、それでも車から降りて、階段を上ると表玄関まで行ってくれた。だが、すぐに引き返す。「ドアには鍵がかかっていました」運転手が告げた。「鍵はお持ちですか?」
「ええ――ちょっと待って」夫人は大慌てでハンドバックのなかを引っかきまわしはじめた。小さな顔は不安でこわばり、唇は薬缶の口のようにすぼめられている。
「あったわ! いいえ――わたしが行きましょう。そのほうが早いわ。わたしならあの人がどこにいるか知ってるんですもの」
夫人は急いで車を出ると、表玄関に通じる階段を、片手に鍵を握ったまま駆け上がった。鍵を鍵穴に入れてひねろうとした――その瞬間、彼女の動きが止まった。頭を寄せて、そこでそのまま微動だにせず立ちつくす。大急ぎで鍵を開け、家に入ろうとしたままの姿勢で、全身は固まってしまっていた。そこで待った――五秒、六秒、七秒、八秒、九秒、十秒、待ち続けた。そこに立つ彼女の姿、頭をもたげ、全身を緊張させているその姿は、まるで、そこからはるか離れた家の奧から聞こえてきた物音が、もう一度、聞こえはしないかと待ちかまえているようでもあった。
そう――あきらかに彼女は耳をすませていたのだった。全身全霊で聞こうとしていた。事実、耳はドアにどんどん近づき、やがてドアにぴたりとついた。いまやドアにしっかりと耳をつけ、さらにもう数秒間というもの、そのままの姿勢、頭をあげ、耳はドアに、片手に鍵をにぎりしめ、いまにも家に入りそうな、だが実際には入らず、そのかわりに、家の奧から微かに聞こえる音を聞き、つきとめようとしているかのようだった。
突然、夫人の顔がぱっと明るくなった。鍵を引き抜くと、階段を駆けおりた。
「もう遅いわ!」夫人は大きな声で運転手に言った。「あの人なんて待ってはいられない。そんなことしてられないわ。飛行機に遅れてしまう。急いでちょうだい、運転手さん、急いで。空港へ行ってくださいな」
(明日最終回。夫人の運命やいかに)
翌朝、フォスター夫人は早くに目が覚め、八時半には準備をすませて階下におりていた。
九時を少しまわったところで、夫が姿を見せた。「コーヒーをいれてくれないか」
「ごめんなさい、あなた。でも、クラブではおいしい朝ご飯の用意ができているはずですわ。車ももう来ています。待ってるんですのよ。わたしも準備はすっかり整っています」
ふたりは玄関ホールに立っていた――このところふたりが顔を合わせているのはいつも玄関ホールのようだった――夫人の方は帽子を被り、コートを着こみ、ハンドバッグを手にしており、フォスター氏はエドワード七世時代ふうの風変わりな仕立ての、襟の高いジャケットを着ている。「荷物はどうしたんだ」
「空港にあります」
「ああ、そうだったな」夫は言った。「もちろんそうだ。クラブに送ってくれるつもりなら、そろそろ出かけた方がいいな?」
「そうしましょう」夫人の声は悲鳴に近かった。「さあ、行きましょう――お願い」
「葉巻を何本か取ってこなくては。すぐに行くよ。先に行ってなさい」
夫人は外に出て、運転手が立っているところへ向かった。夫人が来たのを見て運転手がドアをあけた。
「いま何時?」夫人は運転手に聞いた。
「じき九時十五分になります」
フォスター氏は五分ほどたってから出てき、のろのろと階段を降りるその姿を夫人は見た。あんなふうに細くてぴったりしたズボンをはいていると、まるで山羊の脚みたい。昨日と同じように途中で立ち止まって、空気のにおいを嗅ぎ、空模様を確かめる。空は晴天とまではいかなかったが、霧の合間から一条の陽の光が差しこんでいた。
「今日は君にも運がめぐってくるようだな」夫人の隣に乗り込みながらそう言った。
「急いで、お願い」夫人が運転手に声をかける。「膝掛けなんてどうでもいいわ、わたしがやります。急いで出てちょうだい。遅くなったわ」
運転手は運転席に戻ると、エンジンをかけた。
「しまった」急にフォスター氏が声を上げた。「運転手、ちょっと待ってくれ」
「どうしたんですの、あなた」夫はオーヴァーのポケットをあちこちさぐっている。
「君から渡してもらおうと、エレンにプレゼントを用意していたんだ。おやおや、いったいどこにいってしまったんだ。家を出るときは確かに手に持っていたと思ったんだが」
「そんなもの何も持っていらっしゃいませんでしたわ。どんなプレゼントなんですの?」
「小さな箱で白い紙に包んであった。昨日、君に渡すつもりで忘れていたんだ。今日こそはちゃんと渡しておかなけりゃ」
「小さな箱!」フォスター夫人は悲鳴をあげた。「小さな箱なんて見たこともありませんわ」それから後部座席を死にものぐるいで探し始めた。
夫はなおもポケットを探った。それからコートのボタンを外し、ジャケットのあちこちを叩きだした。「くそっ。寝室に忘れてきたんだ。すぐ戻る」
「まあ、そんな。時間がないんですのよ。そんなものどうだっていいじゃありませんか。郵便で送ればすむことですわ。どうせまたらちもない櫛かなんかでしょう、あなたいつもあの子に櫛をあげるんだから」
「櫛のどこが悪いんだ、教えてくれ」その怒りがあまりに激しかったので、一瞬、夫人は自分の問題を忘れてしまった。
「そんな意味じゃなかったんです、ほんとうよ。でも……」
「ここで待っていなさい」有無を言わさぬ調子で言った。「取ってくるから」
「急いでね、あなた。どうか、ほんとうに急いでちょうだい」
夫人は座ったまま、ひたすら待ち続けた。
「運転手さん、いま何時?」
運転手は腕時計を確かめた。「そろそろ九時半になります」
「空港には一時間で着けるわね?」
「そのぐらいで行けると思いますよ」
そのとき、不意にフォスター夫人は何か角張った白いものが、夫の座っていた座席の隙間から顔を出しているのに気がついた。手を伸ばして引っぱりだしてみると、紙で包んだ小箱である。そのとき、夫人にはどうしても、まるで人の手でむりやり奧まで押しこめられたように思えてならなかった。
「ここにあったわ!」夫人は叫んだ。「見つかったわ。ああ、なんてことでしょう、あの人ったら見つかるまで戻ってこないつもりなのよ! 運転手さん、すぐに――急いで家まで行って、あの人にすぐにくるよう言ってくださいな」運転手は、いかにもアイルランド系という、薄い、きかん気らしい口元をした男で、そうしたことはどうでもよさそうだったが、それでも車から降りて、階段を上ると表玄関まで行ってくれた。だが、すぐに引き返す。「ドアには鍵がかかっていました」運転手が告げた。「鍵はお持ちですか?」
「ええ――ちょっと待って」夫人は大慌てでハンドバックのなかを引っかきまわしはじめた。小さな顔は不安でこわばり、唇は薬缶の口のようにすぼめられている。
「あったわ! いいえ――わたしが行きましょう。そのほうが早いわ。わたしならあの人がどこにいるか知ってるんですもの」
夫人は急いで車を出ると、表玄関に通じる階段を、片手に鍵を握ったまま駆け上がった。鍵を鍵穴に入れてひねろうとした――その瞬間、彼女の動きが止まった。頭を寄せて、そこでそのまま微動だにせず立ちつくす。大急ぎで鍵を開け、家に入ろうとしたままの姿勢で、全身は固まってしまっていた。そこで待った――五秒、六秒、七秒、八秒、九秒、十秒、待ち続けた。そこに立つ彼女の姿、頭をもたげ、全身を緊張させているその姿は、まるで、そこからはるか離れた家の奧から聞こえてきた物音が、もう一度、聞こえはしないかと待ちかまえているようでもあった。
そう――あきらかに彼女は耳をすませていたのだった。全身全霊で聞こうとしていた。事実、耳はドアにどんどん近づき、やがてドアにぴたりとついた。いまやドアにしっかりと耳をつけ、さらにもう数秒間というもの、そのままの姿勢、頭をあげ、耳はドアに、片手に鍵をにぎりしめ、いまにも家に入りそうな、だが実際には入らず、そのかわりに、家の奧から微かに聞こえる音を聞き、つきとめようとしているかのようだった。
突然、夫人の顔がぱっと明るくなった。鍵を引き抜くと、階段を駆けおりた。
「もう遅いわ!」夫人は大きな声で運転手に言った。「あの人なんて待ってはいられない。そんなことしてられないわ。飛行機に遅れてしまう。急いでちょうだい、運転手さん、急いで。空港へ行ってくださいな」
(明日最終回。夫人の運命やいかに)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます