陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

トマス・ハーディ「アリシアの日記」その9.

2010-06-05 23:15:24 | 翻訳
その9.

五月九日

 午後四時。
すっかり興奮してしまって、ペンを取ることもかなわないくらいだが、部屋を出る前にどうしても書いておきたい。わたしが馬鹿みたいに興奮しているのは、思いがけない出来事が、思いも寄らないかたちで起こってしまったからなのだけれど、わたしもキャロラインと同じで、女学生とたいしてちがわないことが明らかになってしまった。

 ムッシュー・ド・ラ・フェストは、わたしたちは明日まではいらっしゃらないとばかり思っていた。それが、ここにいらっしゃる。たったいま、到着されたのだ。父は、ムッシュー・ド・ラ・フェストがまさか一日早くわたしたちの前に姿をお見せだとは思いもよらず、郵便が届く前に遠方の聖職受任式に出かけてしまっていたので、家内の切り盛りは何もかもわたしがしなければならなかった。そこへ、シャルルさんからの手紙を開くと、アトリエの仕事が思ったより早く片づき、この手紙のあとを追って数時間後にはうかがう、とあったので、キャロラインもわたしも、少々の驚きようではすまなかった。

わたしたちは手紙で教えられた汽車を出迎えられるよう馬車を駅にやり、帰ってくる車輪の音をいまや遅しと、ぴんと弦を張った新品の二台のハープのように待ち受けた。とうとう砂利を踏む音が聞こえてきた。

問題は、誰があの方をお出迎えするのか、ということだった。厳密に言えば、わたしの仕事であるといえよう。けれど、わたしはどうも気後れがする。その任を何とかして負うまいとして、キャロラインに行け、と言い張った。ところがあの子も、いつもならお客様があるようなときには、それが誰であってもドアで出迎えるくせに、客間で胸をときめかせながら待っているのだ。あの方も、静まりかえった玄関ホールや、なんだかひとけのない家の中を見たときには、まさにその瞬間、そのすぐ裏では、家中が好奇心で動悸に波を打たしていたとは夢にも思わなかったろう。わたしは階段を上り詰めたところにある奥まった場所、下からは見えないところに立って、父より少し軽い足跡が客間に入っていく音を聞いていた。召使いがドアを閉めて、出ていった。

 そこでふたりきり、楽しい再会を心ゆくまで味わったにちがいない。喪服姿のキャロラインが見上げたときの愛らしい顔――さぞかしあの方の心に響いたことだろう。キャロラインがひどく泣いている声が、こちらにまで聞こえてきた。真っ赤に泣きはらした目になってしまうだろうが、それも仕方あるまい。あの子は幸せなのだから。いまこれを書いているときも、あの子が何の話をしているか、想像がつく。何かのためにいらっしゃることができなかったら、と思うと、怖くてたまらなかった、とか、どうしてもっと早く来ていただけなかったの、と微笑みながら責めたり、そんなことをしているのだ。あの方のスーツケースが、階段の踊り場を通って、部屋へ運ばれていく。わたしもそろそろ降りていった方がいいだろう。

数時間後

 とうとうあの方にお会いできた。こんなふうにお会いするとは予想だにしていなかったので、何だか妙な感じだ。あの方のスーツケースが運ばれて、わたしは自分の部屋を出た。そうして階段の最初の段に足をかけたとき、下の玄関ホールにあるものが目に飛び込んできた。しばらく足を止めてそれを眺めた。カンバスを束ねたものやいくつもの棒、野外スケッチをするときのための天とやイーゼル。

ちょうどそのとき、客間のドアが開き、婚約中のふたりが出てきた。庭に行きましょうよ、と言いながら、妹が帽子を取りに行く。そのあいだあの方は待っておられた。当初わたしは、ふたりと顔を合わせないでおこうと思っていた。というのも、わたしなどがいては邪魔だろうから。ところがわたしはすでに階段のてっぺんに立っていて、引き返すことも出来ない。そこであの方が見上げ、じっとわたしを見つめたまま立っていらっしゃった。夢でも見ているかのように、釘付けにされたかのように。わたしもまた、そこに立ちつくしていた。前へ進むはずのところが、みっともないことにぼうっとしたまま。やがて、もうろうとした意識をなんとかしゃんとさせて降りようとしたとき、妹があの方を呼ぶ声が聞こえてきて、ふたりはドアを開けて一緒に庭へ出ていってしまった。

ふたりのあとからわたしも行こうか、と思ったが、気分が変わった。そうして自分の部屋に戻っていまこれを書いている。いまのわたしにできることはこれだけだ……。あの方は思っていたよりはるかに目鼻立ちの整った方だった。そうして、すがたかたち以上の魅力がおありなのだろうと思っていた予想は、その通りだった。一目拝見しただけで、そのことはよくわかる。キャロラインが幸せでないはずがない。だが、わたしももう下へ行き、ふたりが部屋に戻るまでにお茶の用意をしておかなければ。

午後11時

 ムッシュー・ド・ラ・フェストとお近づきになった。そのせいで、わたし自身がまったく別の女になったような気がする。どうしてそんなふうに思うのか、うまく言葉にはできないのだけれど、あの方とお話していると、視界がぱっと明るくなるようで、心はうち解け、竹馬に乗ったように、高いところから物事が見渡せてくるのだ。

美しい知的な額と、形の良い眉、濃い色の髪と目、生き生きとしたものごし、耳を引きつけるような声。声の質としては優しい、男性にしては優しすぎる声といえるのかもしれない。それでも、あの方にはそれが一番ふさわしいのだ。

わたしたちはずっとあの方の絵の話をしていた。芸術が犠牲と心のこもった献身とを求めるものであるということ、そこにはふたつの道があって、ひとつは俗っぽい、お金儲けの道、そうしてもうひとつは目標を高く掲げて進む道。後者を選べば、その結果、何年ものあいだ、大衆からの支持は得られない、ということ。あの方がそちらを選択しているのは、あの方を少しでも知っている人ならば、言うまでもないこと。そんな方に見初められたキャロラインは恵まれている。結婚が多少先送りされたり遅くなったりしたからといって、悲しんだりしてはならない。やむを得ない事情があったのだから。あの方は妹のことを、ご自身と同じように、知性の面でも上巻の面でも、豊かなものだと考えておられるのだろうか。わたしにはよくわからないけれど、それでもときおり妹の単純なものの見方に、失望されているような気配がうかがえる。あの方はほんとうにいま、このときでも、心から妹を愛しておられるのだろうか。ご自分の感情をそうしたものだと、信じておられるだけではあるまいか。そうして、これから先、生涯にわたってその気持ちは変わらないと願っておられるだけなのでは。

 あの方はほんの短いあいだ、わたしとふたりきりになったとき、不思議なことをおっしゃった。キャロラインはほんの少しも、会話でも手紙でも、わたしのことにほとんどふれたことがなかったそうだ。だから、この家に、わたしのような人間がいることを、まったく知らなかったのだ、と。

とはいうものの、手紙にしても話すにしても、もっぱら自分のことばかりになるというのは、何の不思議もないことだ。不意に会ったせいだろう、二度、三度、わたしの方を、こちらの胸がさわぐようなまなざしで、じっと見つめていらっしゃった。わたしときたら、近来ではほとんど人と交わることもないというのに。そのうち、わたしが見返していることに気がつかれて、あの方も少し困ったようすで、目をそらしてしまわれた。そのおかげで、わたしの動揺していることが気づかれずにすんでよかった。これを見ても、あの方もまた、あまり社交的な方ではないのだろう。



(この項つづく)




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