陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

オスカー・ワイルドの話(※一部加筆)

2011-05-10 23:52:47 | weblog
外国の小説の中には、さまざまな引用句がちりばめられている。最初にそのことを知ったのは、アガサ・クリスティやエラリー・クイーンの翻訳物を読んでいるとき、カッコでくくられた中に小さな字で書いてある(訳注:ルカ伝22章9節より)といった文言からだった。注解がなければ読み過ごしてしまうような言葉に実は深い意味がこめられていたり、登場人物が突然ラテン語をしゃべり出したり。引用句というのはおもしろいものだと思った。

やがて、欧米ではその場にもっとも合った格言・名言を引用できるのが一種の教養であると考えられていることを知るようになる。自分でも原文でミステリを読むようになったころ、辞書と一緒に引用句辞典を買い、それらしい言葉が出てきたら、索引から探してみるようになった。そのうち、引用句辞典を引くのではなく、「読む」ことがおもしろくなって、気の利いた警句や、人間に対する鋭い洞察を飽きず眺めたものである。

そのうち、シェイクスピアや聖書ほどではないが、オスカー・ワイルドの項目にも、ずいぶん多くの言葉が所収されていることに気がついた。当時はまだ、オスカー・ワイルドといえば、子供の頃に読んだ『幸福の王子』や、もう少し大きくなって読んだ『ドリアン・グレイの肖像』の作者としてしか知らなかった。
その人が

  "Always forgive your enemies; nothing annoys them so much.(自分の敵はかならず許してやることだ。それ以上に連中を困らせることはないのだから)"
 
とか

  "What is a cynic? A man who knows the price of everything and the value of nothing. (皮肉屋とは何であるか。あらゆるものの値段を知っていて、何一つその価値を知らない人間のことだ)"

などという、これまで言葉にしたくてもうまくできなかった「ある種の感じ」をずばっと言葉にしてくれている。これはぜひ、もっと読んでみなくては、と思って、それほど多くない小説や戯曲、さらには獄中記に至るまでせっせと読んだ。やがて、彼の人となりを知るようになり、ワイルドがすばらしい名言の数々を残したのも当然、そもそも彼は機知にあふれる警句を口にすることで世に出た、ということを知るようになった。

ワイルドは1854年、アイルランドに有名詩人の母親と、これまた高名な眼科と耳鼻科の医師である父親の下に生まれる。十代でアイルランドの名門カレッジに進学し、そこで「審美主義者」になった。こう書くとたいていの人は「審美主義者」って何だ? と思うだろうが(もちろんわたしもそう思った)、実際のところ、自分はこれから美を追求していこう、日常においても美を至上の価値として、それに沿った生活をしていこう、と決心するのが「審美主義者」なのである。資格も何も必要ない肩書きなので、人からの冷笑を浴びてもビクともしない強い心臓さえあれば、明日からでも看板を掲げるだけならできそうではある。

だが、ワイルドは自称するだけではなく、「審美主義者」の実践に励んだ。トリニティカレッジでは著名な古典学者の下で、学業そっちのけで美しい装飾品や家具、嗜好品に対する見識を深めていった。徐々にアイルランドはワイルドにとって小さな街に思えてきて、イギリスに行き、オックスフォードに進むことにする。それも、オックスフォードが「審美的」に見て自分にふさわしいように思えてのことで、特に何かを勉強しようという目標があったわけでもなかったらしい。

そもそもがそんな動機だったものだから、学業に励んだわけでもなく、卒業したからといって将来が開けることにもならない。いくつか戯曲を書いてはみたものの、上演されるあてもなく、一向に文名は上がりそうにはなかった。

ところがその彼が、ロンドンの社交界では有名人だったのだ。パーティの席上で、誰かが言った言葉に対して、才気あふれる切り返しをしたり、機知に富んだ言葉をふんだんに振りまいたりする人物として。簡単に言えば「おもしろいやつがいる」ということだったのだろう。ワイルドが現代に生まれていれば、きっとおっそろしく頭の切れるお笑い芸人になっていたにちがいない。つまりは何をやっているのだか、誰もその実体をよく知ってはいないのだが、なんとなく有名な、人気者、というわけである。

鋭い言葉で一部の人に人気者だったワイルドが、広く世の人に知られるようになったのは、当時、大変人気のあった、ギルバートとサリバン(ギルバート・オサリバンじゃないよ、十九世紀後半にオペレッタをたくさん書いた二人組だよ)が、ワイルドをモデルにした戯曲を書いたからだった。いつも百合を手にしていた(「なぜなら百合は美しいだけで、何の役にも立たないから」)ワイルドさながらに、百合を手に登場した役者は、巧みな切り返しと魅力的な警句を口にする。そのオペレッタは大評判となり、かくしてワイルドも有名人になったのである。

おしゃべりするだけの「有名人」は、アメリカにも行き、「審美主義者」として各地を講演して回った。ところがアメリカでの評判は高くても、イギリスに戻ればそういうわけにはいかない。「何でもない有名人」のワイルドが、実質を備えるための苦闘はまだまだ続いた。

ところがそんな中、ワイルドの周りには彼を崇拝する大勢の青年たちが集まってくる。その一部と同性愛の噂が立ち、噂をうち消すために結婚し、子供までもうけた。だが、他方で青年たちとの交友も続き、その中から生まれたのが、『ドリアン・グレイの肖像』だったのだ。

当時はヴィクトリア朝、お堅い道徳が幅を利かせた時代である。そのさなかに頽廃そのものの生き方をする主人公を登場させたのだから、当時のセンセーションたるや、すさまじいものだったに相違ない。一躍、ワイルドはベストセラー作家となったのである。

その彼に、近づいていった青年がいた。貴族の息子、アルフレッド・ダグラスである。彼のワイルドに対する傾倒ぶりはすさまじいもので、『ドリアン・グレイ…』を一言一句まで暗記し、熱烈な求愛活動を行った。やがてふたりは公然と関係を結ぶようになるのだが、ヴィクトリア朝の当時、頽廃的な美しさの小説を賛美することと、現実に同性が恋人同士となることはわけがちがったのである。この関係が世間から容赦されるはずがなかった。

だが、いつの世も、破局が訪れてダメージを受けるのは、社会的地位の高い側である。片やこれといって取り柄のない貴族の末息子、片や、『ウィンダミア夫人の扇』『サロメ』などの戯曲で大成功をおさめている作家。となると、社会的地位を失うのはどちらか、明かだろう。

破局は、アルフレッド・ダグラスの父親であるクイーンズベリー侯爵が、ワイルドに対して、「ソドミスト オスカー・ワイルド殿」としたためた手紙を、ワイルドの出入りする社交クラブのテーブルの上に載せておいたところから始まった。だが、公然たる侮辱を受けても、ことさらに仕返しする気のなかったワイルドを焚きつけたのが、息子のアルフレッドである。あろうことか「ぼくを愛しているなら、名誉毀損で父親を訴えてくれ」とワイルドに迫ったのである。

当時、こんな訴訟を起こして勝てるはずがない。あっけなくクイーンズベリー侯の無罪が決まり、逆に今度は侯爵からワイルドはわいせつ罪で訴えられてしまった。

このときワイルドが逃げていれば事なきを得たのだろうが、ワイルドはイギリスに留まった。自分の人間洞察力と魅力的な言葉を武器に、裁判では無罪が勝ち取れると思ったのだろうか。だが、その結果はワイルドを憎む判事によって、可能な限りの過酷な判決が下されたのである。重労働二年の懲役だった。

それまでペンより重いものは持ったことがない……かどうかは知らないが、審美主義者であるワイルドが、重労働に耐えられるはずがない。重労働といっても、重い荷物を運ぶようなレベルではないのである。荒れ地に行き、岩を動かし、穴を掘るような労働である。ワイルドはあっというまに健康を損ない、それでも獄中では何とか生き延びて二年の刑を終えたが、釈放後二年あまり、ホームレスとなり放浪生活を続けたのち、亡くなってしまう。

ところで、禍の元凶たるアルフレッド・ダグラス、当時の彼は、ちょうどやかましい父親、クイーンズベリー侯の死後、財産を相続していたのだが、ダグラスはすべてを失ったワイルドを助けただろうか。
答えはノー。ワイルドの援助の依頼を断っただけでなく、絶交状を叩きつけたのである。「老いさらばえた娼婦のようなことを言うな。金の無心で煩わせないでくれたまえ」と言って。よくもまあ、と思うが、今日まで「悪名」が残り、世界中でさげすまれていることを思えば、彼だってもう十分罰を受けているのかもしれない。

病み衰えたワイルドは1900年、パリのフランスの屋根裏部屋で息を引き取る。
彼の最期の言葉とされているのが、以下のものである。死の床にあったワイルドは、荒れ果てた部屋で、壁紙だけを見ていたのだろうか。

 "My wall paper and I are in a battle to the death, one or the other must go."(わたしの壁紙とわたしはいま死を賭した闘いをしているところだ。どちらか一方が逝かずばなるまい)

鋭いきらめきに満ちた言葉によって世に出、そうした言葉をちりばめた戯曲で成功をおさめ、最期まで言葉を道連れにしたワイルド。彼にとって言葉こそ、文字通り、彼の命だったのだろう。

そのワイルドの忘れられない言葉を。
アルフレッド・ダグラスの父親との泥沼のような裁判のさ中、クイーンズベリー侯は激怒してワイルドをののしる。
「どぶさらいめが。息子までどぶに引きずりこみおって」

それに対してワイルドはこう応えた。

"We are all in the gutter, but some of us are looking at the stars."
(わたしたちの誰もが、どぶの中にいるのです。けれどもそのうちの何人かは、そこから星を見上げています。)





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