夏休みの宿題というと、自由研究と並んで、読書感想文が生徒を悩ませる。自由研究にせよ、感想文にせよ、研究のやり方、まとめ方、書き方も教えないでそんな宿題を出すのだから、考えてみればひどい話である。
わたしもこのふたつには悩まされた。自由研究ならまだいい。とりあえず何か調べて、観察するか実験するかして、まとめればどうにかなるのだから。問題は感想文だった。感想といったところで、ああ思った、こう思ったなどとつらつら書くのはどう考えてもバカっぽい。第一、そんなことでは原稿用紙の四分の一も埋まらないではないか。
仕方がないから文庫本や全集の巻末にある解説を写した。丸写しするわけにもいかないから、ちょっと表現を変えたり、ふたつみっつの文章をあちこちつなげたりしながら、苦労しながらマス目を埋めた。
そんなに苦労して提出したのに、返ってきた講評にはいつも「自分の言葉で書きましょう」と書いてあったのである。わたしはいつもおもしろくなかった。確かにわたしはいろんな本からぱくりはしたが、「感動した」「自分だったらああした、こうした」が自分の言葉なのだろうか。誰でも思いつくような言葉がどうして「自分の言葉」で、自分が「これがいい」と選んだ言葉が「自分の言葉」ではないのだろう。そもそも「自分の言葉」なるものがどこかにあるのだろうか。
だが、当時のわたしはまるでわかっていなかったのだが、「自分の言葉」というのは、そういう意味ではないのだ。「自分のものになっていない言葉」という意味だったのだ。
解説や評論を読んで、自分が理解したことを書く代わりに、自分を介在させずに、そのまま切り張りしただけの文章は、決して自分のものではない。それだけのことだった。だが、それだけのことがわかるようになるまで、わたしはずいぶん本を読んだり、文章を書いたりしなければならなかったのだが。
書かれている文章を、一字一句まで丹念に読み、自分が理解しようとしている文章には一体何が書かれているかを考え、その考えたことを書く。つぎの章を読み、自分が読みとったと思っていた箇所と、矛盾するところが出てくれば、それを改めて、書き直していく。
そういう作業を続けているときの自分が書いた文章には、「自分」が現れている。そこに現れた言葉が「自分の言葉」なのである。というのも、小説でも評論でも、深く理解しようと思えば、その本に書かれている文言だけではなく、自分が生きている現実を、自分はどのように理解しているかを通して読まざるを得ないからだ。
そのように、自分の理解を通して考え、少しずつ理解しながら書いていく言葉は、解説にも評論にも出てくる、辞書にも載っている、出来合いの言葉である。けれど、自分の感想文全体の中で、ほかの部分としっかりと結びついている。借りてきた文章には、決してそんな芸当はできない。そこだけが浮き上がっている。それは、別の人の考えであって、自分とはなんの関係もないものだからだ。
もちろん、感想文にせよ、小論文にせよ、書き方というものはある。学校は、そうした宿題を出す以上は、基本的な書き方や構成、読み方の手順ぐらいは教えるべきだとは思う。
けれども、それ以上に問題なのは、現行の感想文なり作文なりの課題が、生徒に考えないまま、とりあえずマス目を埋めるようなことをやらせてしまうことだ。それはとりもなおさず、言葉を粗末にすることに通じる。言葉を粗末にするということは、自分が生きている現実の理解を粗末にすることに通じる。それは結局、ひどく貧相な世界を生きることに行き着いてしまうのではあるまいか。
わたしもこのふたつには悩まされた。自由研究ならまだいい。とりあえず何か調べて、観察するか実験するかして、まとめればどうにかなるのだから。問題は感想文だった。感想といったところで、ああ思った、こう思ったなどとつらつら書くのはどう考えてもバカっぽい。第一、そんなことでは原稿用紙の四分の一も埋まらないではないか。
仕方がないから文庫本や全集の巻末にある解説を写した。丸写しするわけにもいかないから、ちょっと表現を変えたり、ふたつみっつの文章をあちこちつなげたりしながら、苦労しながらマス目を埋めた。
そんなに苦労して提出したのに、返ってきた講評にはいつも「自分の言葉で書きましょう」と書いてあったのである。わたしはいつもおもしろくなかった。確かにわたしはいろんな本からぱくりはしたが、「感動した」「自分だったらああした、こうした」が自分の言葉なのだろうか。誰でも思いつくような言葉がどうして「自分の言葉」で、自分が「これがいい」と選んだ言葉が「自分の言葉」ではないのだろう。そもそも「自分の言葉」なるものがどこかにあるのだろうか。
だが、当時のわたしはまるでわかっていなかったのだが、「自分の言葉」というのは、そういう意味ではないのだ。「自分のものになっていない言葉」という意味だったのだ。
解説や評論を読んで、自分が理解したことを書く代わりに、自分を介在させずに、そのまま切り張りしただけの文章は、決して自分のものではない。それだけのことだった。だが、それだけのことがわかるようになるまで、わたしはずいぶん本を読んだり、文章を書いたりしなければならなかったのだが。
書かれている文章を、一字一句まで丹念に読み、自分が理解しようとしている文章には一体何が書かれているかを考え、その考えたことを書く。つぎの章を読み、自分が読みとったと思っていた箇所と、矛盾するところが出てくれば、それを改めて、書き直していく。
そういう作業を続けているときの自分が書いた文章には、「自分」が現れている。そこに現れた言葉が「自分の言葉」なのである。というのも、小説でも評論でも、深く理解しようと思えば、その本に書かれている文言だけではなく、自分が生きている現実を、自分はどのように理解しているかを通して読まざるを得ないからだ。
そのように、自分の理解を通して考え、少しずつ理解しながら書いていく言葉は、解説にも評論にも出てくる、辞書にも載っている、出来合いの言葉である。けれど、自分の感想文全体の中で、ほかの部分としっかりと結びついている。借りてきた文章には、決してそんな芸当はできない。そこだけが浮き上がっている。それは、別の人の考えであって、自分とはなんの関係もないものだからだ。
もちろん、感想文にせよ、小論文にせよ、書き方というものはある。学校は、そうした宿題を出す以上は、基本的な書き方や構成、読み方の手順ぐらいは教えるべきだとは思う。
けれども、それ以上に問題なのは、現行の感想文なり作文なりの課題が、生徒に考えないまま、とりあえずマス目を埋めるようなことをやらせてしまうことだ。それはとりもなおさず、言葉を粗末にすることに通じる。言葉を粗末にするということは、自分が生きている現実の理解を粗末にすることに通じる。それは結局、ひどく貧相な世界を生きることに行き着いてしまうのではあるまいか。
縦書きについては、たまたまです。
僕が10代の頃はパソコンやらインターネットとかなかったから、だからWebで自分の書いたものがまるで本のように縦書きの活字みたいに表示されるのがすごく嬉しい。
残念なことに自分の本をつくる能力がないものだから(笑)。
最近は年をとってこの数年というもの、10代の頃のことが思い出されて思い出されて(末期症状?)。
露ほども信念を持って書いてはいませんが、来年あたりは執念(!)で音楽ブログって方向性に持っていきたい。10代の頃に聴いていたポップ・ミュージックへの憧憬。
それができたらパソコンはもう必要ないわ。余生を静かに暮らそう(笑)。
インターネットを始めて数年(もっと)が過ぎたが、他人のブログにコメントを書いたのは十指にも満たない。
一期一会だと思うので、これからもこっそりと陰陽師的日常を読むようにいたします。
レスポンス、ほんとうに遅くなってごめんなさい。
このところなんだかんだと忙しくて、ゆっくり返事を書くことができませんでした。ブログを開いても、ヘミングウェイを読みながら、それとはちがう種類の文章を書くことがむずかしかったんです。頭の中がうまく切り替わらなくて。
「猿の手」は、誰もが筋だけは知っているけれど、それでいてちゃんと読んだことはないたぐいの短篇だと思うんです。あらすじだけ知っているのではもったいない。ささいな願いごとをしたばっかりに、息子を失った老夫婦の悲しみも、なおかつそれを墓へもどそうとする老人の決断も。
あらすじを知っていてもおもしろい、というだけでなく、この短篇を読むと、わたしはいつも考えてしまうんですが、「猿の手」というのはいったい何のメタファーになっているのでしょうか。
もちろん、悪魔との取引き、と考えても良い。悪魔が仕掛けてきた罠ですから、結局何を願っても、最後には自分、もしくは自分のかけがえのない人の命がうばわれるようになっているわけです。悪魔との取引きっていうのは、正解がない、取り引きしないのが唯一の正解、っていう話だ、と考えても良い。
でも、わたしはいつも何か、もっとちがうものなのではないか、と思ってしまうのです。
たとえばわたしたち、神社に行って、願い事をあたりまえのようにしていますけれど、いったいどういうメカニズム(?)が働いて、願いがかなうと思っているんでしょうか。
よく、新年のニュースなんかで、お賽銭箱に一万円札が入っている映像が流れるんですけれど、一万円をお賽銭箱に入れる人は、五円だと願い事はかなわないから、一万円札を入れてるんだろうか、一万円だとかないやすい、と考えているのだろうか、と思うわけです。
なんで神様がお金の額で動くと考えるんだろう。
額じゃない、それだけ必死なんだ、と言われちゃいそうですが、必死という質的なものが、どうして金額という量的なものに換算されるのか。その換算は、誰がどこでいったいどういう規準でやっているのだろうか、と、いろいろ考えるんです。
考えれば考えるほど、わからなくなってくる。
わたしたちはどうも「願う」先が通じているどこかを、考えたくながっているのではあるまいか。考えてしまうと、敬虔なものが失われてしまうように感じて。
ところが、願う先は、いつでも善意ではないんだよ、というのが、この「猿の手」だと思うんですね。
その意味で、すごくおもしろい。
昔話を擬したものなんですが、考えていくと奥の深い話だと思います。
ま、こんなことをあれこれ書いているから、返事が本文より長くなっちゃったりするんですが。
何にせよ、コミュニケーションというのは、発信したときが開始点ではないわけです。誰かに受けとめられて、初めてそれが成立する。
その意味で、わたしは意見を聞かせていただくのをいつも楽しみにしているんです。
だけど、ずいぶん遅くなっちゃって。
ほんとに遅れてごめんなさい。
まだ読んでくださってるといいのですが。
また、何か読まれて「おもしろかったよ」みたいなのがありましたら、お話聞かせてくださいね。
ところで。
ブログ、拝見いたしました。
縦書きで書かれていらっしゃるんですね。
わたしはどうもブラウザは縦はダメで。
いまの状態がかならずしも読みやすいとは思っていなくて、幅や行間を少しずついじったりはしているのですが、縦書きで読むのはちょっと辛いのです。
昔、丸谷才一だったか誰だったかのエッセイの中で、人間の目は横についているから、横書きの方が読みやすいのだ、と眼科医が言った、と紹介してあって、ほんとだろうか、とうさんくさく思ったことがあるのですが、確かにペーパーバックなんかを読んでいると、あの活字サイズが日本語だったらつらいだろうな、と思うことが多々あります。小さい字でびっしり書いてあると、縦より横の方が読みやすい。
とりあえずわたしは「人間の目は横についているから」(笑)という理由で、サイトも横書きにしてるんですけどね。それでも、ひとつの段落が長くなると、とたんに読みにくくなるから、原文にない改行をしたりして、いつも原文を汚してるような気がしているのです。
それでも、信念を持って縦書きを続けておられるのは、偉いことだと思います。
ブログを続けていくのはなかなか大変だと思いますが、またお話、聞かせてください。
書き込みどうもありがとうございました。
検索で「猿の手」を探していて陰陽師さんのサイトを知りました。
本は読めるうちに読んでおくべきだったと、そんな個人的な感慨(後悔)に耽ってしまいました。
投稿されたコメントよりも、レスポンスのコメントの方が長いのに好感を持ちました(笑)。管理者さんの書くの大好き度みたいなものをひしひしと感じました。