その3.
父親はくるりと背を向けると、ごわごわした黒いコートを先に押し立てるようにして歩きだした。歩こうとすると痩せた体がぎくしゃくとかしぐのは、三十年前、馬を盗んで逃げていく彼のかかとに南軍の憲兵が撃ったマスケット銃の弾が当たったせいだった。少年はいつのまにか二つに増えた背中のあとについていく。兄が人混みのなかから現れたのだ。父親ほど背は高くなかったが、もっとがっしりしていて、ひっきりなしに噛みタバコをかんでいるのだ。厳しい表情の人びとのあいだを通って店の外へ出て、すりへったポーチを抜けて、たわんだ階段を下り、犬や大人になりかけの少年たちが集まっている暖かで埃っぽい五月の空の下に立った。少年が通り過ぎようとしたとき、押し殺した声が聞こえた。
「放火魔!」
ふたたび視野を失った少年は振り向いた。赤みがかったもやのなかに、顔がひとつ、月のような、満月よりもさらに大きな顔が浮かんでいる。その顔のもちぬしは、少年より体半分大きかったが、うっすらと赤いもやの向こうの顔に飛びかかっていった。殴られた感覚も衝撃もないまま、頭が地面にたたきつけられ、這い上がってまた飛びかかる。今度も殴られた感触はなく、口のなかに血の味も感じないまま、また這い上がって見ると、相手の少年は一目散に逃げていくところだった。跳び上がって追いかけようとしたとき、父親の手がぐいと引き戻し、険しい、暖かみのまったくない声が頭の上から聞こえた。「行って荷馬車に乗るんだ」
荷馬車は道の向こうのニセアカシアと桑の茂みに停めてあった。そろって図体の大きなふたりの姉が晴れ着に身を包み、更紗の服を着てつばの広い帽子をかぶった母親と、母親の妹と一緒に乗っている。女たちは、少年の記憶にあるだけでも十数度にも及ぶ引っ越しにも耐えてきた、さまざまながらくたにはさまって坐っていた。おんぼろのストーブ、壊れたベッドや椅子、真珠貝がはめこまれた時計、もはや動いていない、二時十四分あたりで止まったまま、日も時も告げることを忘れた時計は、元は母親の嫁入り道具だった。母は泣いていたが、少年の姿を見ると袖口で顔をこすり、荷馬車を降りようとした。
「戻れ」父親が言った。
「この子、けがをしてるじゃないか。水を取ってくるよ、洗ってやらなきゃ……」
「荷馬車に戻るんだ」父は言い、少年も荷馬車の後ろから乗り込んだ。父親は、兄がすでに坐っていた御者台に上ると、やせた二頭のラバそれぞれに、皮をはいだ柳の枝で作ったムチをふりおろした。乱暴だが、熱のこもらない手つきである。虐待を楽しんでいるのではなかった。ちょうど、もう何年か何十年かして、彼の子孫たちが車を動かす前に、エンジンの空ぶかしをするのと同じようなもので、ムチをくれるのも手綱を引くのも、ひとつづきの動作なのだった。
荷馬車は進んでいき、厳しい表情の人びとが黙ったまま見送っている店も、背後に遠ざかり、カーブを曲がると、もはや見えなくなってしまった。もうすっかり、と少年は考えた。たぶん、もう満足したんだ。だからもう……少年は独り言をいう声が自分にさえ聞こえないように口をつぐんだ。母親の手が肩に触れた。
「痛かないかい?」
「いや。痛かねえ。ほっといてくれよ」
「乾いちまう前に、血をお拭き」
「夜、洗うからいい。ほっといてくれったら」
荷馬車は進んだ。少年には自分たちがどこに向かっているのかわからなかった。誰ひとりとしてそれを知らなかったし、聞く者もなかった。というのも、これまで一日か二日、ときには三日進んでいくと、かならずどこかにはついたし、かならずそこには家のようなものが待ちかまえていたからである。おそらくあらかじめ別の農場で収穫を手伝う契約をしてから、それから父親は……。また彼はそこでやめなければならなかった。あいつはいつもそうなんだ。確かに父親のオオカミのような独立心は見事なものだったし、勇気だってあった。少なくとも、まだ利害がはっきりとしていないあいだは、彼のことをよく知らない人びとはそういう印象を持ったのだ。彼の内側に潜む貪欲で残忍な面が、信頼できるものとして映ったというより、自分の行動を正しいと暴力的なまでに思いこんでいるところが、利益を同じくする人びとにとっては、頼もしく感じられたのだろう。
その晩、一家はカシとブナの林にキャンプを張ることにしたが、そこにはもう春が来ていた。夜はまだ寒かったので、近くの柵から横木を引き抜き、適当な長さに切って火を焚いた――小さな火が上がった。こぢんまりと、しみったれたといってもいいような、だが抜け目ない、しっかりとした火だった。こうした火は父親の好みで、いつもそう、たとえ凍えるような天候のときでもそうなのだった。もし少年がもっと大きかったなら、どうしてもっと大きい火を焚かないのか、いぶかしく思い、そう尋ねてみたかもしれない。戦争での無駄や散財を見てきたばかりか、生まれつき、自分のものだけでなく、ありとあらゆるものを散々に浪費しつくすようなたちなのに、どうして手当たり次第、目につくものなら何でも燃やしてしまわないのだろう?
さらにもう一歩踏み込んで、理由をこう考えたかもしれない。このしみったれた炎は、あの四年間、あらゆる人びとから――南軍からも北軍からも――逃れ、つないだ数頭の馬たち(父親はそれを馬質と呼んでいた)と森のなかで過ごした毎夜の生きた成果なのだろう、と。もっと大人になっていれば、ほんとうの理由も察知したかもしれなかった。火という要素は、父親の生命を動かしている主要な動力なのだ――ちょうど他の人びとにとって鉄や火薬がそれにあたるように、本来のあり方を保っていくための、たったひとつの武器、それがなければ息をする値打ちもなく、それがあるゆえに敬意と分別をもって扱われる。それが火なのだろう、と。
だが、そのとき少年が考えていたのはそんなことではなかったし、彼が生まれてこのかた見てきたのはずっと同じ、しみったれた火だった。彼はその火のかたわらで黙って夕飯を食べ、鉄の皿を抱えたまま、眠りかけていた。そのとき父親が彼を呼んだので、すぐにこわばった背中のあとについていった。父親はぎくしゃくと無慈悲に足をひきずりながら、丘の斜面を登り、星明かりの道までやってきた。そこで振り向いたので、星を背にした父親の姿は見えたが、表情まではわからない。のっぺりと黒い姿は、ひらべったく血も通ってないようで、まるで鉄のフロックコートを切り抜いたように見えた。父親の声はブリキのようにしわがれていて、ブリキのように熱がこもっていなかった。
「てめえはやつらにしゃべろうと思っていただろう。あいつにしゃべっちまおうとしてたんだろう」
少年は返事をしなかった。父親は平手で彼の横っ面を張った。当たりはきつかったが、ほとんど熱が感じられない張り手だった。ちょうど店で二頭のラバを打ったときとまったく同じ、棒を使わずにアブを叩き殺すためにひっぱたくのとまったく同じだ。声にも、怒りの響きも熱もなかった。
「てめえはな、大人になろうとしてるんだ。だからそろそろ覚えなきゃな。てめえの血はてめえで守るんだ。さもなきゃ、てめえの血にしっかりとしがみついとくんだ、さもなきゃおまえがしがみつけるような血はどこにもなくなっちまうぞ。今朝あそこにいた誰かが、てめえの見方になってくれるとでも思ってるのか、ええ? 連中が望んでいるのは、おれを捕まえるチャンスだけだ。おれが連中をのしちまったからな。だろ?」
やがて二十年が過ぎ、彼はこう独り言を言うことになる。「もしおれが、あの人たちはただ真実と正義を求めていただけだったと言ったとしたら、おれをもう一度殴ったことだろう」だがいまの彼は何も言わなかった。泣きもしなかった。ただそこに立ったままでいた。
「何とか言ってみろよ」父親が言った。
「はい」少年は小さな声で言った。父親は向こうを向いた。
「もう寝ろ。明日はあそこへ行くんだから」
(この項つづく)
父親はくるりと背を向けると、ごわごわした黒いコートを先に押し立てるようにして歩きだした。歩こうとすると痩せた体がぎくしゃくとかしぐのは、三十年前、馬を盗んで逃げていく彼のかかとに南軍の憲兵が撃ったマスケット銃の弾が当たったせいだった。少年はいつのまにか二つに増えた背中のあとについていく。兄が人混みのなかから現れたのだ。父親ほど背は高くなかったが、もっとがっしりしていて、ひっきりなしに噛みタバコをかんでいるのだ。厳しい表情の人びとのあいだを通って店の外へ出て、すりへったポーチを抜けて、たわんだ階段を下り、犬や大人になりかけの少年たちが集まっている暖かで埃っぽい五月の空の下に立った。少年が通り過ぎようとしたとき、押し殺した声が聞こえた。
「放火魔!」
ふたたび視野を失った少年は振り向いた。赤みがかったもやのなかに、顔がひとつ、月のような、満月よりもさらに大きな顔が浮かんでいる。その顔のもちぬしは、少年より体半分大きかったが、うっすらと赤いもやの向こうの顔に飛びかかっていった。殴られた感覚も衝撃もないまま、頭が地面にたたきつけられ、這い上がってまた飛びかかる。今度も殴られた感触はなく、口のなかに血の味も感じないまま、また這い上がって見ると、相手の少年は一目散に逃げていくところだった。跳び上がって追いかけようとしたとき、父親の手がぐいと引き戻し、険しい、暖かみのまったくない声が頭の上から聞こえた。「行って荷馬車に乗るんだ」
荷馬車は道の向こうのニセアカシアと桑の茂みに停めてあった。そろって図体の大きなふたりの姉が晴れ着に身を包み、更紗の服を着てつばの広い帽子をかぶった母親と、母親の妹と一緒に乗っている。女たちは、少年の記憶にあるだけでも十数度にも及ぶ引っ越しにも耐えてきた、さまざまながらくたにはさまって坐っていた。おんぼろのストーブ、壊れたベッドや椅子、真珠貝がはめこまれた時計、もはや動いていない、二時十四分あたりで止まったまま、日も時も告げることを忘れた時計は、元は母親の嫁入り道具だった。母は泣いていたが、少年の姿を見ると袖口で顔をこすり、荷馬車を降りようとした。
「戻れ」父親が言った。
「この子、けがをしてるじゃないか。水を取ってくるよ、洗ってやらなきゃ……」
「荷馬車に戻るんだ」父は言い、少年も荷馬車の後ろから乗り込んだ。父親は、兄がすでに坐っていた御者台に上ると、やせた二頭のラバそれぞれに、皮をはいだ柳の枝で作ったムチをふりおろした。乱暴だが、熱のこもらない手つきである。虐待を楽しんでいるのではなかった。ちょうど、もう何年か何十年かして、彼の子孫たちが車を動かす前に、エンジンの空ぶかしをするのと同じようなもので、ムチをくれるのも手綱を引くのも、ひとつづきの動作なのだった。
荷馬車は進んでいき、厳しい表情の人びとが黙ったまま見送っている店も、背後に遠ざかり、カーブを曲がると、もはや見えなくなってしまった。もうすっかり、と少年は考えた。たぶん、もう満足したんだ。だからもう……少年は独り言をいう声が自分にさえ聞こえないように口をつぐんだ。母親の手が肩に触れた。
「痛かないかい?」
「いや。痛かねえ。ほっといてくれよ」
「乾いちまう前に、血をお拭き」
「夜、洗うからいい。ほっといてくれったら」
荷馬車は進んだ。少年には自分たちがどこに向かっているのかわからなかった。誰ひとりとしてそれを知らなかったし、聞く者もなかった。というのも、これまで一日か二日、ときには三日進んでいくと、かならずどこかにはついたし、かならずそこには家のようなものが待ちかまえていたからである。おそらくあらかじめ別の農場で収穫を手伝う契約をしてから、それから父親は……。また彼はそこでやめなければならなかった。あいつはいつもそうなんだ。確かに父親のオオカミのような独立心は見事なものだったし、勇気だってあった。少なくとも、まだ利害がはっきりとしていないあいだは、彼のことをよく知らない人びとはそういう印象を持ったのだ。彼の内側に潜む貪欲で残忍な面が、信頼できるものとして映ったというより、自分の行動を正しいと暴力的なまでに思いこんでいるところが、利益を同じくする人びとにとっては、頼もしく感じられたのだろう。
その晩、一家はカシとブナの林にキャンプを張ることにしたが、そこにはもう春が来ていた。夜はまだ寒かったので、近くの柵から横木を引き抜き、適当な長さに切って火を焚いた――小さな火が上がった。こぢんまりと、しみったれたといってもいいような、だが抜け目ない、しっかりとした火だった。こうした火は父親の好みで、いつもそう、たとえ凍えるような天候のときでもそうなのだった。もし少年がもっと大きかったなら、どうしてもっと大きい火を焚かないのか、いぶかしく思い、そう尋ねてみたかもしれない。戦争での無駄や散財を見てきたばかりか、生まれつき、自分のものだけでなく、ありとあらゆるものを散々に浪費しつくすようなたちなのに、どうして手当たり次第、目につくものなら何でも燃やしてしまわないのだろう?
さらにもう一歩踏み込んで、理由をこう考えたかもしれない。このしみったれた炎は、あの四年間、あらゆる人びとから――南軍からも北軍からも――逃れ、つないだ数頭の馬たち(父親はそれを馬質と呼んでいた)と森のなかで過ごした毎夜の生きた成果なのだろう、と。もっと大人になっていれば、ほんとうの理由も察知したかもしれなかった。火という要素は、父親の生命を動かしている主要な動力なのだ――ちょうど他の人びとにとって鉄や火薬がそれにあたるように、本来のあり方を保っていくための、たったひとつの武器、それがなければ息をする値打ちもなく、それがあるゆえに敬意と分別をもって扱われる。それが火なのだろう、と。
だが、そのとき少年が考えていたのはそんなことではなかったし、彼が生まれてこのかた見てきたのはずっと同じ、しみったれた火だった。彼はその火のかたわらで黙って夕飯を食べ、鉄の皿を抱えたまま、眠りかけていた。そのとき父親が彼を呼んだので、すぐにこわばった背中のあとについていった。父親はぎくしゃくと無慈悲に足をひきずりながら、丘の斜面を登り、星明かりの道までやってきた。そこで振り向いたので、星を背にした父親の姿は見えたが、表情まではわからない。のっぺりと黒い姿は、ひらべったく血も通ってないようで、まるで鉄のフロックコートを切り抜いたように見えた。父親の声はブリキのようにしわがれていて、ブリキのように熱がこもっていなかった。
「てめえはやつらにしゃべろうと思っていただろう。あいつにしゃべっちまおうとしてたんだろう」
少年は返事をしなかった。父親は平手で彼の横っ面を張った。当たりはきつかったが、ほとんど熱が感じられない張り手だった。ちょうど店で二頭のラバを打ったときとまったく同じ、棒を使わずにアブを叩き殺すためにひっぱたくのとまったく同じだ。声にも、怒りの響きも熱もなかった。
「てめえはな、大人になろうとしてるんだ。だからそろそろ覚えなきゃな。てめえの血はてめえで守るんだ。さもなきゃ、てめえの血にしっかりとしがみついとくんだ、さもなきゃおまえがしがみつけるような血はどこにもなくなっちまうぞ。今朝あそこにいた誰かが、てめえの見方になってくれるとでも思ってるのか、ええ? 連中が望んでいるのは、おれを捕まえるチャンスだけだ。おれが連中をのしちまったからな。だろ?」
やがて二十年が過ぎ、彼はこう独り言を言うことになる。「もしおれが、あの人たちはただ真実と正義を求めていただけだったと言ったとしたら、おれをもう一度殴ったことだろう」だがいまの彼は何も言わなかった。泣きもしなかった。ただそこに立ったままでいた。
「何とか言ってみろよ」父親が言った。
「はい」少年は小さな声で言った。父親は向こうを向いた。
「もう寝ろ。明日はあそこへ行くんだから」
(この項つづく)
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