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 陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ジョン・スタインベック 「菊」その2.

2007-12-08 22:51:41 | 翻訳
その2.

 エリーサは手袋の甲で目にかかる前髪をはらったが、そのときに頬に土がついた。その向こうには小ぎれいな白い農家が建っていて、窓まで届くほど伸びた赤いゼラニウムが取り囲んでいる。いかにも掃除の行き届いたようすの小さな家で、窓もゴシゴシと磨かれたらしく、表階段の泥よけマットも清潔なものだった。

 エリーサはまたトラクター置き場に目を走らせた知らない男たちはフォード・クーペに乗り込もうとしている。エリーサは片方の手袋を脱ぐと、古い株から伸びてきた緑色の新芽の葉むらのなかに、しっかりした指を入れた。葉をかき分けて、びっしりと伸びている茎を上からのぞく。アブラムシもいなければ、ワラジムシも、カタツムリも、ヨトウムシもいない。テリアのような彼女の手は、そんな害虫が動き出さないうちに、ひねりつぶしてしまうのだ。

 エリーサは夫の声にドキッとした。夫はそっとやってきて、牛や犬や鶏から花壇を守るための金網にもたれていたのだった。

「またやってるんだなあ」夫が言った。「また来年も丈夫な花を咲かせるにちがいない」

 エリーサは背を伸ばして、庭仕事用の手袋をはめ直した。「そうよ。来年も丈夫な花を咲かせてくれるの」その声にも表情にも、少しばかり得意げな気配がある。

「たしかに、ものを扱う才能があるよな」ヘンリーが言った。「今年咲かせた黄色い菊は、直径が二十五センチぐらいのもあったものな。果樹園でそれぐらいでかいリンゴを作ってくれりゃありがたいんだが」

 エリーサの目に熱がこもった。「きっとそれだってできるはずよ。確かにわたしにはうまくやっていく才能があるのよ。母がそうだったんだもの。母はね、地面に挿しさえすればなんだって大きくすることができた。植木屋の手を持ってるから、どうすればいいかわかるんだ、ってよく言ってたもの」

「ま、確かに花を育てるのはうまいよ」

「ヘンリー、あんたがさっき話してたのはだれなの」

「そうそう、それを教えてやろうと思ったのさ。あれは西部食肉会社の連中だったんだ。三歳の去勢牛が三十頭売れたよ。こっちの言い値同然でな」

「すごい。良かったじゃない」

「で、おれは考えた」彼は言葉を続けた。「土曜日の午後じゃないか。サリナスへ繰りだしてレストランで食事としゃれこもうじゃないか。そのあと映画でも見るのさ、お祝いにってことでな」

「すごい」彼女はもういちど同じことを言った。「ほんと、ステキ」

 ヘンリーは冗談めかして言った。「今夜はボクシングの試合があるんだ。ボクシングを見に行くのはどうかな」

「それはいや」胸がしめつけられるような声を出した。「いやだわ、ボクシングなんて好きじゃない」

「冗談に決まってるじゃないか、エリーサ。映画に行くんだ。待てよ、いま二時だ。おれはスコッティをつれて、その去勢牛を丘からおろしてくる。たぶん二時間ほどでけりがつくだろう。五時に町へ行って、コミノス・ホテルで飯を食うことにしようや。どうだ?」

「それでいいに決まってるじゃない。外で食べるなんてすてき」

「よし、それじゃおれは馬を二頭連れに行ってくる」

「わたしは時間も十分あることだし、この苗木を植え替えることにする」

 夫が馬小屋の横でスコッティを読んでいる声が聞こえてきた。ほどなく男がふたり、去勢牛をさがしに、ほの黄色い丘の斜面を馬に乗ってのぼっていくのが見えた。

 菊を根付けるために、小さな四角い砂の苗床があった。移植ごてで土を何度も掘りかえすと、表面をならして軽く叩いて固める。それから、苗を挿すための溝を十本平行に掘っていった。菊が植えてある花壇に戻って、真新しい芽を引き抜くと、ひとつずつ葉をはさみでととのえて、きちんと重ねていった。

(この項つづく)


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