陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ウィラ・キャザー 「ポールの場合」その7.

2007-03-12 22:54:21 | 翻訳
「ポールの場合」その7.

 ジャージー・シティ駅についたポールは、明らかに落ち着かないようすで、あたりを鋭い目で窺いながら、慌ただしく朝食をすませた。二十三番通り駅に着くと、辻馬車の御者に、紳士服店に連れて行ってくれるよう頼み、ちょうどその日に開店したばかりの店に向かった。そこで二時間以上かけて、買い物に熟考を重ねたのだった。外出用スーツを試着室で着こみ、フロックコートと盛装はリネンのシャツと一緒に馬車に載せた。それから帽子屋と靴屋に向かう。つぎの用件はティファニーで自分のために銀の指輪と新しいネクタイ・ピンを買うことだった。指輪に名前を入れてもらいたいのだが、その時間がないんだ、とポールは言った。最後にブロードウェイにあるトランクの店に寄り、それまでに自分が求めたものを、さまざまな旅行カバンに詰めさせたのだった。

 一時過ぎ、ウォルドーフホテルに着くと、御者に心付けを渡して受付に入っていった。ワシントンから来た、と記載する。ぼくの両親が帰国するんだ、だからその汽船の出迎えに来たんだよ。いかにももっともらしく説明したうえに、両親のぶんもあらかじめ払っておこう、と申し出たために、つづき部屋を取るのに何の面倒もなかった。寝室、リビング・ルーム、浴室の部屋である。

 一度どころではない、もう何百回も、ポールはニューヨークに行くことを計画してきた。チャーリー・エドワーズには、計画の隅々までくりかえし話していたし、家ではスクラップブックに何ページにも渡って、新聞の日曜版からニューヨークのホテルの記事を切り抜いて取っていたのだ。八階のリビング・ルームに案内されて、ポールは一目でなにもかもがこうあるべきと思っていたそのままであることを見て取った。だが、ただひとつ、些細なことではあったが、思い描いていたのとちがっている点があったので、ベルを鳴らしてボーイを呼んで、下から花を持ってこさせた。ボーイが戻るまで、落ちつかなげに動き回っては、リネンのシャツを片づけたりしたが、そうするあいだもリネンの手触りを楽しむのだった。花が届いたので、急いで水に挿し、こんどは自分が温かい湯に浸かった。やがて白い浴室から出てきたポールは、まばゆいばかりに新しいシルクの下着を身につけて、赤いガウンのふさをもてあそんでいた。窓の外では吹雪が渦巻いていたので、通りの向こうはほとんど見えなかったが、部屋のなかは心地よく暖かで、良い香りに包まれていた。ポールはスミレと水仙をソファの脇の小さなテーブルに置いて、自分の身はそのソファに沈めて明るいストライプ模様の毛布にしっかりくるまると、深々とため息をついた。全身がぐったり疲れていた。ずっと急いでいたし、緊張に耐えてきたのだ。ずっと緊張状態が続いたまま、この二十四時間で、事態は驚くほどの進展を見せていたので、彼自身、なにもかもがどうしてこういうことになったのか、なにもかも振り返ってみたくなったのだった。風の音、暖かな空気、花の心地よい香りに誘われて、ポールはもの憂げに、あれやこれやを思いだしていた。

 驚くほど簡単にことは進んだ。連中がポールを劇場とコンサートホールから閉めだして、彼の大切なものを奪ったときに、実際、あらゆることが決まっていたのだ。それから先は単に偶然の産物であったにすぎない。驚いたのは、自分にそんな勇気があった、という、ただ一点だった――というのも、不安が、恐怖の予感が、体をどんどんきつく締めつけてくるのをきわめてはっきりと感じていたのである。近年では、自分が周りの者たちに言いつづけてきた嘘の網の目が、体中の筋肉を、ぎゅうぎゅうと締め上げていたのだった。いままでに、ほんの一瞬たりとて、なにものをも怖れていなかったときなどなかったのをよく覚えていた。ほんの小さな子供だったときでさえ、恐怖は背後に、あるいは前方に、あるいはすぐ脇に、つきまとっていたのだ。かならず薄暗い隅があり、暗い場所があり、そこをあえて見ようとはしなくても、何ものかが自分をじっと監視しているのは知っていた――だから自分は見ても美しくないことをしたのだ、と。

 けれどもいまは奇妙な安心感があった。あたかもとうとうその隅の何ものかに戦いを挑みでもしたかのように。

(この項つづく)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿