陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「わたし」はどこにいる

2010-08-04 10:37:57 | weblog
最近、何が恐ろしいといって、生きていたはずの高齢者が、実はどこにもいなかった、というニュースほど恐ろしいものはない。それが一件だけならまだしも、全国あちこちでぼろぼろ見つかって、あまりに恐ろしくて、シャーリー・ジャクソンのホラーも、何だか心安らかに思えてしまうほどだ。

このニュースが何より恐ろしいのは(もちろん家族が抱える秘密とか、そんなことを考えるだけで頭がクラクラしてしまうのだが)、「この自分がいま、ここにいる」という、自分にとっては何よりもあきらかで動かしようのない「事実」が、他人にとっては確かでも何でもないこと、いくつかの書類と、ほんの数人の証言さえあれば、どうにでもなってしまうほど不確かなことがらである、という点だ。

わたしたちは仮にどんなことを疑ったとしても、自分がいまここにいる、ということだけは、絶対に疑えない。わたし、自分、おれ……と一人称で語る「自分」というのは、理屈抜きで、確実な存在だ。

ところが、その「確かさ」というのは、自分の意識の内だけのことなのだ。自分の意識から一歩外へ出てしまえば、自分の存在など、どうやらそれほど確かなものでもないらしいのだ。
出生届けが出されなければ、その子は公的には存在しない。
死亡届けが出されなければ、その人はいつまでも生きている。

わたしがここにいる。わたしは何のなにがしという名前を与えられて、ここにいる、とどれだけいってみても、それは証明にはならない。だってここにいるでしょう、と主張しても、それが何のなにがしという人物であることの証明にはならない。身分証明証を提示しようにも、それは偽造かもしれないし、もしかしたら出生証明書が出されていないかもしれないし、ひょっとしたら死亡証明書が出されているかもしれない。誰かに証明を頼もうにも、数人が、そんな人は知らない、と言ってしまえば、それでおしまいだ。

ピランデッロの『生けるパスカル』という小説では、実際に生きているのに死んでしまったことになって、新しい人生が開けるかと思ったら、結局この世に場所がないことがわかってしまう男が描かれていた。その人が生きていることは、周囲の人が支えてくれなければ生きていくこともできない、という小説だった。
そんな話が現実にあちこちで起こったら、実際たまたものではない。わたしたちの意識の底が揺らいでしまう。

というのも、何をしていようと、どこにいようと、意識のある限り、わたしたちの意識の根底を支えているのは、「わたしがわたしである」という確実な意識だからである。だから、わたしたちは「自分の過去」を記憶しておけるのだし、これからのことも考えていける。一瞬一瞬で集合離散を繰りかえさずに人とつきあうこともできる。

つまり、「いま、ここにいるわたし」という存在を支えているのは、「わたしがわたしである」という意識だし、それしかないのだ。
そうしてまた、その意識を支えているのは、「いま、ここにいるわたし」なのである。なんだか自分の尻尾を呑み込んでいるヘビとか、落語の「頭山」とかを思い出してしまうのだが、事実、わたしたちはそんなふうに、自分で自分の体を持ち上げるようなことをやっているのだ。

幸いなことに、自分が実はアクロバットをやっていることは、ふだん忘れていられる。わたしたちを取り巻く人びとが、わたしの名前を呼んでくれ、そこにいることを認めてくれ、あなたのことを知っている、と言ってくれるからだ。「わたしはわたしだ」という確実な意識も、そうやってあいさつされるたびに、わたしの存在は保証され、その確かさが裏書きされている。

けれども、こうしたニュースは自分の存在が、自分が意識するようには確実でもなんでもないことを教えてくれる。ほんの数人の、もしかしたらたったひとりの「秘密」になってしまうかもしれないのだ。

何か、ほんとうにいやな、恐ろしいニュースだ。
おそらく、家族という場が崩壊しつつあるのだろうが、この話はまたいつか、別のところで。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (コウ)
2010-08-04 11:56:04
陰陽師さん、こんにちは^^夏バテしていませんか? どうぞ、ご自愛ください。

ところで、今回の話題は掘り下げていったら、とんでもなく深い場所まで行きそうですね。枝道もいろいろあるだろうし。

「自分」というものの存在根拠が、実は他者によって裏付けられているんだってことは、誰もがおぼろに感じつつ、「んなことねーよ!」と嘯いているのが、大方の現状だと思います。

>おそらく、家族という場が崩壊しつつあるのだろうが、この話はまたいつか、別のところで。

楽しみにしています。
返信する
100パーセント自分、ではなく (陰陽師)
2010-08-12 18:54:07
コウさん、こんにちは。

小説をお書きだなんて、すごいですね。
ご活躍、何よりです。

夏バテとまでは行かないのですが、行く先々でエアコンがかかっているところでは寒くなり、ないところでは暑さにやりきれなくなってしまい、なかなか体温調節がむずかしいことです。大気をますます暑くしているのがエアコンの室外機であるとわかっていても、中で震えているのですから。

> 「自分」というものの存在根拠が、実は他者によって裏付けられているんだってことは、誰もがおぼろに感じつつ、「んなことねーよ!」と嘯いているのが、大方の現状だと思います。

どうしても自分の感じ方を足がかりにするしかないから、コウさんがおっしゃる「大方」の人がどういうふうに感じているか、わたしにはいまひとつよくわからないのですけれど、もしかしたらそうなのかもしれませんね。

でも、
> 「んなことねーよ!」
と言わずにいられないのも、
「いまのままの自分でいて」と誰かに言われたいと願うのも、
「もっと頑張らなきゃ」と思うのも、自分の組成が百パーセント自分でないことに、おぼろげながらも気がついているからなのではないでしょうか。

自分は、自分だけでできているわけではない。自分の中に他者を抱え込んでしまって、それを含めて「わたし」と呼んでいることに漠然と気がついているからこそ、わたしたちはひとりでは生きていられない。人と関係を作らずにはいられない。

ただ、その関係のあり方は、ずいぶん変わってきているのだろう、とくに、インターネットを媒介とした関係のありようが登場して、劇的に変わりつつあるのだろうと思います。

家族のこととか、まあ扱う問題が大きすぎて、そのままではどうやっても料理できないから、その切り口とかはまたぼちぼちと考えて行きたいと思います。

どこへ出られるかわからないんですけどね。

その前に、まずジャクスンだ。早いとこ片づけなきゃ(笑)。

書き込み、どうもありがとうございました。
また遊びに来てくださいね。
返信する

コメントを投稿