陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

フィッツジェラルド「崩壊」 その5.

2011-08-05 23:28:25 | 翻訳
その5.



取り扱い注意

1936年3月


 前号の小文で、筆者は自分が手にしたものが、若い頃、四十になったときのために注文しておいた皿ではなかったことに気がついた、と書いた。実のところ、筆者と皿は同じこと、筆者は自分を壊れた皿に喩えているだけなのだから、そんなものを後生大事に書き記すことに、どれほどの価値があるのだろう。編集者に言わせれば、この小文は、詳しい説明もなしに多くのことがらをほのめかしているだけらしいし、読者の多くも同じように感じたのかもしれない――あるいは、告白などというのは「不屈の魂をお与えくださった神々に感謝する」式の、ありがたい言葉で締めくくってでもいないかぎり、唾棄すべきもの、と思っている人もいるだろう。

 だが、この私だってもう長いこと神々には感謝してきたのだ。しかも、何の見返りも求めずに。あれは私の失われたものに寄せる哀歌なのである。背景を飾ろうと、エウガネイの丘(※イタリア北東部の丘陵地帯でバイロンの別荘があり、シェリーはそこで「エウガネイの丘にて」という詩を書いた)を描くようなまねもしなかった。そもそも私にとってのエウガネイの丘など、どこにもなかったのだから。

 とはいえ、壊れた皿も食器棚にしまっておけば、なにかの役に立つことがある。もちろんコンロにかけて暖めたり、洗い桶のなかでほかの皿と一緒に揺すって洗うわけにはいかない。客に出すこともできないけれど、夜中にクラッカーをのせるとか、残り物を冷蔵庫にしまうとかの役には立つ……。

 ということで、続きの話をしよう――壊れた皿の後日譚である。

 さて、どん底にいる人間のための特効薬は、現実に貧しさや病気に苦しんでいる人びとのことを考えてみることである――これはどんな種類の憂鬱にも効く万能の福音で、昼間なら誰にでもてきめんの効果を上げる。ところが午前三時というのは、荷物をひとつ忘れたぐらいのことが、死刑の宣告に劣らぬほどの悲劇的な意味を持つものだから、どんな薬も効きようがないのだ――そうして魂の漆黒の闇の中では、来る日も来る日も、時刻はいつも午前三時だ。その時刻、人は子供じみた夢の中へと逃げこんで、少しでも長く現実から目を背けようとする――だが、世間の方がさまざまなかたちで手を伸ばしてくるせいで、ひっきりなしにハッと目が覚める。こうした干渉から身をかわし、なんとかもう一度夢の中に戻ろうとする。夢見ている間に、物質的な面であれ、精神的な面であれ、棚ぼた式に万事うまくいかないかなあ、と期待しながら。ところが逃避は繰り返すにつれて、うまくいくチャンスをますます遠ざけてしまうのだ――待ちこがれた先にあるのは、悲しみが消えていく瞬間ではない。見たくもない処刑の光景だ。ほかならぬこの自分が崩壊してゆくという処刑……。

 狂気か麻薬か酒にでも頼らないかぎり、この状況は行くところまで行き、最後に待っているのは空虚な静けさだ。ここまで来れば、自分が何を奪われ何が残ったか、見極めることができる。私はこの静寂にたどりついたとき、これと同じことが、これまでにも二度、あったことを思い出した……。



(この項つづく)







最新の画像もっと見る

コメントを投稿