陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

「猫の話」の話

2010-08-26 22:24:38 | weblog
梅崎春生の作品の中に『輪唱』という不思議な小説集がある。ごく短い作品ばかり三つ集めたもので、『輪唱』というからには、相互に何らかの関連があるような気もする。どうやら二番目の「猫の話」にでてくるカロは、最初の「いなびかり」のおじいさんとおばあさんの家でクジラ肉を盗み食いする「やせたぶち猫」のように思えるし、そうなると「午砲」にでてくる背の高い叔父さんは、運送屋の二階に下宿していた青年のその後の姿なのだろうか、などということをとりとめなく考えてしまうが、ここではその二番目にでてくる「猫の話」の話。

主人公は若い男で、大通りに面した運送屋の二階で、猫と一緒に暮らしている。その猫はもともと野良猫で、主人公は、飼うつもりもないまま、食堂から持って帰った残り物の魚の骨などを与えるうちに、猫の方が居着いてしまった。そこで彼は猫にカロという名前をつけてやる。

ところがある日、主人公が窓から外を見下ろしていたちょうどそのとき、カロが車に轢かれてしまうのである。その晩、主人公はカロを思って泣き明かす。

翌朝、窓から外を見ると、カロの死体がそのまま道にある。夜の内に車に何度も轢かれたせいで、その遺体は「猫の身体のかたちのまま、面積は生きているときの五倍にもひろがって」いたのである。

そのひらたく広がってしまったカロの上を車は何台も通り過ぎる。さらに翌日になると、今度は縁のめくれたところから、車のタイヤが「かすめとって」いくようになった。カロの遺体はだんだん小さくなっていく。つぎの日になると、もはや猫の形も失ってしまっている。だが、ずっと見張っている主人公には、カロのどの部分かがわかった。
 黄昏のいろが立ちこめてきた頃、カロはすでに手帳ほどの大きさになっていた。それは最後までのこったカロの顔の部分であった。彼は異様な緊張を持続しながら、黄昏れかかった通りを見張っていた。

 通りのかなたから自動車の影をみとめるたびに、彼は身体をかたくした。そしてその車輪がカロにふれないように、必死に祈願した。
(「猫の話」『輪唱』『梅崎春生全集3』沖積舎)
 

とうとうその最後の切れ端さえも、タクシーがさらっていった。
 彼は窓からはなれ、部屋のまんなかにくずれるように座りこんだ。そうして両掌を顔にあて、しずかな声で泣いた。カロがすっかり行ってしまったことが、ふかい実感として彼におちたのであった。カロの死骸が、いまや数百片に分割され、タイヤにそれぞれ付着して、東京中をかけめぐっていると考えたとき、彼はさらに声をたかめて泣いた。
 
これを最初に読んだのは十代も初めの頃だったが、ぺったんこになった猫の死骸が、車に少しずつ削り取られていくという描写が強烈で、実際にネコやハトの礫死体を目にするたびに、この話を思い出したものだった。ただ実際に目にした礫死体は、ひからびる前の、つまりまだかなり生々しい状態で車に削り取られ、当時といまとではタイヤのグリップ力みたいなものがちがうのか、その跡は梅崎の小説よりもはるかに無惨としかいいようのないものだった。「猫の身体のかたちのまま、面積は生きているときの五倍にもひろがって」という描写から浮かんでくる、グロテスクだけれどどこかおかしい姿などでは、まったくなかったのである。

そんな礫死体を見たことのなかったわたしは、ほんとうにカロはそんな姿になったのだろうか、と、よく考えたものだった。

対象とのあいだに少し空気がはさまっているような描写は、梅崎の小説を読むたびに感じられるものだ。それはときにありふれた光景を異様なものにも見せるし、無惨なもの、悲惨なものを、どことなく滑稽味を含んだものに見せることもある。いずれにしろ、梅崎春生を読むたびに、こんなふうに、ものごとというのは距離を置いて、間に空気をはさんで見ることもできるのだ、と思った。そうして、わたしが目の当たりにしているものを、わたしは「現実ありのまま」と思っているけれど、それは「わたしの目にそう見えている」だけに過ぎないのだ、ということを、この人の小説を通じて知っていったような気がする。

ところで、この「猫の話」を思い出すのは、動物の礫死体を目のあたりにしたときばかりではないのだ。

散骨の話を聞くと、どういうわけかわたしはこの話を思い出してしまう。遺骨を海に撒いたり、飛行機で空を飛びながら空中に撒いたりするという話を聞くたびに、ああ、カロと同じ目に遭っているのだなあと思うのである。

確かにカロは別に、自分の亡骸が東京中をかけめぐることを希望したわけではなかったろうから、散骨を希望して、遺族にそうしてもらっている人とはちがう。だから、「同じ目」というのは、正確ではないのだが。

散骨を希望するというのは、つまりは自分が生きているあいだは否応なく押し込められている身体や名前や社会的身分から、死後脱出したいという、ある種ロマンティックな心もちのように思える。こんな「自分」など脱ぎ捨ててしまいたい、もっと自由になりたい、という気分なら十分に理解できるものだし、生きているあいだ無理であれば、死んでからはそうしたい、という希望も、まったく理解できないというわけではない。

だが、自分の死後、果たしてその「自由さ」を感じることができるものなのだろうか。わたしにはわからないし、わからないことをあまり言いたくない。

ただ考えるのは、遺族はまちがいなく何かを感じるだろうし、それはどのような思いなのだろう、ということだ。

お墓を作る。そこに埋葬するということは、そこにその人がいる、と感じることでもある。自分にはもう手の届かないところではあっても、「そこにその人がいる」と信じることができる。それは生きている人にとっての慰めではないのだろうか。

それに対して、カロの最後の一片が失われたとき、主人公はほんとうにカロが自分から失われたことを理解した。カロは「すっかり行ってしまった」のである。カロはどこに行ったのか。東京中を駆け回っている。そう思ったとき「彼はさらに声をたかめて泣いた。」
この悲しみは、「そこにいる」と信じることすらも奪われた人の悲しみであるように思われるのだ。

散骨した人にとって、故人の骨の粉が世界中を漂っていることは、救いになるのだろうか。それとも、「すっかり行ってしまった」ことになるのだろうか。わたしはどうしても考えてしまうのだ。

何かを見るたびに、何かを思い出す、ということがある。逆に言えば、思い出というのは、思い出す「よすが」を必要とするのかも知れない。その「よすが」もなくなれば、わたしたちは思い出すこともなくなってしまう。そのとき、人はほんとうに「行ってしまう」のだろう。

カロがいなくなったあと、主人公の部屋には、コオロギが出没し始める。生前のカロはコオロギを捕るのが好きだったのだ。捕り手がいなくなって、コオロギは鳴き始める。その声は、主人公にカロを思い出させるよすがとなるのだろう。

そんなふうに、散骨しようがどうしようが、故人とつながりのある人は、何らかのよすがで思い出すにちがいないだろうが。



※帰ってきてからちょっと忙しくて、更新できませんでした。
また今日から続けていきますので、よろしくお願いします。



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1 コメント

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同じように思い出していました。 (猫好き)
2013-01-08 17:34:29
若い頃、国語の教科書か国語のテストかで読んだこの文章。衝撃を受けました。今でも忘れられず動物の轢死体を見るたび思い出していました。ふと検索してみようと思い、このブログに辿り着きました。主人公はそういう思いだったのかと納得しました。国語力の無い私には読み取れなかったです。昔も今も。ありがとうこざいました。梅崎春生の作品に興味がわきました。
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