陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

キャサリン・マンスフィールド「見知らぬ人」その1.

2008-08-05 22:58:53 | 翻訳
今日からキャサリン・マンスフィールドの「見知らぬ人」の翻訳をやっていきます。一週間くらいの予定です。

淡い、出来事らしい出来事もない、数時間を切り取った短篇です。
人の移ろいゆく気持ちが静かに描かれていきます。
おもしろくない人にはおもしろくないかもしれないんですが。

舞台はニュージーランド。埠頭には、ヨーロッパから来る定期船を待つ人びとが集まっています。
原文はhttp://members.lycos.co.uk/shortstories/mansfieldstranger.htmlで読むことができます。

* * *

The Stranger(「見知らぬ人」)
by Katherine Mansfield



埠頭に小さな人垣を作っていた人びとには、船はもう動かないような気さえしていた。灰色にうねる波の上に巨大な姿を静かに横たえ、煙の輪がひとつ、その上に浮かんでいた。おびただしい数のカモメが、やかましく鳴き交わしながら、船尾から投げ捨てられたものをめがけて水中に飛び込んでいる。小さなふたり一組の人影が、並んで歩いていくのが見える――ちっぽけなハエが、しわの寄った灰色のテーブルクロスに載った皿の上を、行ったり来たりしているようだ。ほかのハエは端の方に群れてたかっている。そのとき、低い方のデッキで白いものが一瞬ひらめいた――コックのエプロンか給仕女なのだろう。こんどは小さな黒い蜘蛛が、ブリッジに出る梯子をのぼっている。

 人垣の突端に立っているのは、体格の良い中年の男性である。大変身なりのいい人物で、暖かそうなグレイのオーバーを着こみ、同色の絹のスカーフに厚手の手袋、濃い色のフェルト帽をかぶって、きちんと巻いた傘を振り回しながら、行ったり来たりしていた。どうやら彼が埠頭の小さな人垣のリーダーのようにも、また、人びとをひとところにまとめていく役割を果たしているようにも見えた。さしずめ、牧羊犬と羊飼いの中間というところである。

 だが、それにしても馬鹿な話――双眼鏡を持ってこなかったのは、うかつなことだった。この人びとがまた、だれひとり、双眼鏡を持ってきていないのだった。

「おかしな話じゃありませんか、スコットさん。わたしたちの誰ひとりとして、双眼鏡を持ってくることを思いつきはしなかったんですからね。みんなの気持ちを少しでも引き立てることだってできたはずなのに。短い合図だって送る算段ができたはずだ。『上陸をためらうべからず。原住民に害意なし』とか、『歓迎が待つ。万事水に流した』なんてね。いかがです、ええ?」

 ミスター・ハモンドの、鋭く熱っぽいまなざしは、非常に神経質なものだったが、同時に親しみのこもった、率直なものだったので、埠頭に集まっただれもが、そしてまたロープの向こうの舷門にいた年老いた男たちさえ、ひかれていた。人びとはみんな、ひとり残らず、ミセス・ハモンドが船に乗っていることを知っていたし、ひどく興奮しているミスター・ハモンドには、その驚くべき事実がほかの人びとにとっては、自分が感じているほど一大事でないかもしれないなどと、どうしたって信じられないのだった。そう考えると、ミスター・ハモンドは、誰に対しても暖かい気持ちになるのだった。だれもが――と彼は決め込んだ――立派な人なのだ、と考えた。舷門のそばにいる年寄り連中だって――そう、立派でちゃんとしたおじいさんたちだ。なんという胸板をしているんだ――たいしたものじゃないか! 自分も胸を張り、厚い手袋をはめた両手をポケットにつっこんで、体を前後にゆすった。

「そうなんですよ、うちの家内はこの十ヶ月間、ずっとヨーロッパに行ってたんです。去年結婚した長女のところへ行きましてね。家内をここまで連れてきたのはわたしです。オークランドからね。だから迎えも、連れて帰るのも、わたしがやった方がいいだろうと考えたんですよ。そうです、そういうことなんです」ふたたび鋭い、灰色の目を細めて、動きのない定期船の方を見やった。またしてもオーバーのボタンをはずす。ひらべったい、バターのような薄い黄色の時計をまた取り出して、二十回目――五十回目かもしれない――あるいは百回目の計算がまた始まった。

「ええと、医者の乗ったランチが出たのは二時十五分だった。二時十五分。いまちょうど四時二十八分だ。つまり医者が言ってから二時間十三分が経過したことになる。二時間十三分だ。ひゅぅ」そう言うと、奇妙な口笛のような小さな声を出して、またぱちんと時計を閉めた。「だが何かあったのなら、わたしたちにも知らせてもらわなくてはね――そうじゃありませんか、ゲイヴンさん」

(この項つづく)


(※moukunさん、お返事遅くなってごめんなさい。明日書きます)


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