陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

自殺という復讐

2012-06-17 22:52:29 | weblog
少し前、大阪府知事が「“死にたい”というのなら自分で死ねよ」と言った、というので、ずいぶん問題になったことがあった。この言葉の前に、「通り魔になるぐらいなら」というのが省略されていることがわかっていても、“それはいくらなんでも言い過ぎではないか”と思った人も多いのではあるまいか。

たまに自殺願望を抱く人がいる。わたしも過去、死にたいというメールをもらって、いてもたってもいられないような気持ちになったことがあるが、「死にたい」という言葉を聞いたりすれば、たとえ相手のことがさほど好きではなかったとしても、なんとか相手を思いとどまらせようとするにちがいない。おそらくこの松井知事も、現実に誰かに「死にたい」と言われたら、翻意をうながすよう説得するのではないか。少なくとも「死にたきゃ死ねよ」とは言わないような気がする。

それにしても、自殺と人を殺すことは、一見、無関係であるように思えるのだが、どうしてそれがひとりの人間の中でイコールで結ばれるのだろうか。

ところで、ドラマや映画で未婚の主人公が妊娠した場合、紆余曲折があっても生むことを決心したところでハッピー・エンド……という展開がお定まりだ。小説の場合は、もう少し屈折があって、結局中絶手術を受けることになってグダグダ……という経過をたどることも少なくないが、どちらにしても根本にある思想は「赤ちゃんが生まれる」ことに対する強い肯定感である。

そのバリエーションとして、「出産に立ち会う」パターンもある。エレベーターや事故現場などで急に産気づいた妊婦さんを、主人公たちはとまどいながらも必死で世話しようとする。そうして無事、赤ちゃんは生まれ、主人公も妊婦さんも、感涙を流す。さらに児童文学になると、動物の出産を手伝うというパターンもある。いずれも生命の誕生はすばらしい、という確信に支えられている。

これと逆のパターンとして、「死」を扱うのは、明らかな悪役でないかぎり、悲劇的な文脈である。主人公はよほどの場合を除けば、まず死なないし、主人公サイドの登場人物たちにもできるだけ死なないでほしい。やむなく死ぬしかなくなった登場人物を見ると、架空の物語であることがよくわかっていても、見ているわたしたちの気分はふさがれてゆく。

生きることはかならずしも楽しいことばかりではないし、幸福感が一瞬であるのに対し、苦しみや惨めな思いは後を引く。生きていこうと思えば金はかかるし、やらなければならないことは、あとからあとから出てくるし、責任は重いし、と、あるていど年齢を重ねた人なら「生きること」のしんどさなら、十分知っているはずだ。

にもかかわらず、生はよいものであり死は悪いものである、ということを、わたしたちは理屈を超えたところで確信しているのだと思う。

自殺を願う人も、おそらくそういう確信は抱いているはずだ。だからこそ、逆説的な意味で、自殺が「解決」となりうるのではあるまいか。

なかには、生が良いものだからこそ、自分にふさわしくない、という自己嫌悪の気持ちから自殺を考える人もいるだろう。あるいは、何か問題があって、良い生を営めそうにないから、自殺しようと思う人もいるかもしれない。さらには、良い生が営めないのは、あいつらのせいだ、あいつらに俺がどれだけ苦しんでいるか思い知らせてやる、という気持ちから、自殺を考える人もいるだろう。こうした人にとって、自殺は世間や周囲の人間に対する復讐の意味を持つ。そうして、事実、自殺は周囲に対する復讐の意味を持つのである。

三浦雅士の『漱石 母に愛されなかった子』(岩波新書)は、『坊ちゃん』の中のこんなエピソードを引いてそのことを語っている。
母が病気で死ぬ二三日前台所で宙返りをしてへっついの角で肋骨を撲って大いに痛かった。母が大層怒って、お前のようなものの顔は見たくないと云うから、親類へ泊りに行っていた。するととうとう死んだと云う報知が来た。

「お前のようなものの顔は見たくない」というのは、もちろん本心ではない。腹を立てた親は、子供によくこんなことをいう。もちろん坊ちゃん自身もそのことはよくわかっているのだが、「じゃあ消えてやるよ」と親類の家に泊まりに行ってしまう。

三浦はこれを以下のように読み解く。
じゃあ、消えてやるよと言うそのとき、自分は、母はそう願っているに違いないという場所に立って言っています。母の立場に立って、そこから自分に向かって命じている。つまり、有無を言わせず、母の立場を暴力的に占拠しているのです。母の思いを解釈し、そうに決まっているとわざと断言し、その断言によって自分を追放しているのだ。これは、自分というものが出来上がる、その出来上がり方を逆にたどりなおして、たどりついた始原を陵辱しているに等しいと言うべきです。

 自殺にしても同じです。自殺が本質的に暴力的なのは、自分で自分を殺すからでは必ずしもない。むしろその背後に、全人類は滅亡していい、滅亡すべきであるという論理を隠しているからである。それは身体の暴力である以上に、精神の暴力である。物質の暴力である以上に、言葉の暴力なのだ。
『漱石 母に愛されなかった子』

つまり、自殺しようとする人は、自分に向かって「おまえなんか死んでしまえ」と宣告する。そうして事実、死んでしまうことによって、周囲の人がそれを言ったことにしようとするのである。だからこそ、自殺は「復讐」の意味を持つ。

自殺を口にする人がいると、わたしたちはなんとかして思いとどまらせようとする。それは単に、相手に死んでほしくないから、というだけではない。自分が相手を殺したくはないから、自分のせいで、相手に死なれたらたまったものではないから、死んでもらいたくはないのである。さほど相手に深い関わりがなくても、たとえ赤の他人であっても、目の前で自殺されでもしたら、いまここにいる自分の存在が自分が否定されたことになってしまうからなのだ。

自殺というのは、単に自分を殺す、ということではない。人間を殺すということに代わりはないのであり、その意味で、自分を殺せるような人間は、他人も殺せるということなのかもしれない。

だから、その前に(通り魔殺人などを犯すぐらいだったら)という言葉が省略されていることがわかっていても、そうして、実際に自殺志願者を前にしてそんなことを言うはずがないと思っていても、知事の「“死にたい”というのなら自分で死ねよ」という言葉は、平静な気持ちで聞くことはできない。それは、子供たちが仲間内でよく言う「死ね!」という罵倒語ではなく、ほんとうの意味で「死んでしまえ」という意味をもっているから。


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2 コメント

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Unknown (反省しなさい。)
2015-02-08 18:03:46
あなたのような人間がいるからこそ、自殺は減らないのですよ。
自殺を考えるほど苦しんでいる人、そして苦しんで自殺した人を更に苦しめている。あなたは相手が死者になってでも傷をつける。
どれだけ恥が多い内容か考えて反省しなさい。
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Unknown (Unknown)
2016-06-08 02:53:17
何が反省しなさいだよ。偉そうなやつだな
匿名で説教気取りとか頭悪すぎだろ
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