陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

便利なもの、不便なもの (続き)

2008-09-06 23:03:08 | weblog
ともかく、いまの世の中が昔に比べて格段に便利になったことはまちがいない。

以前、キャンプに行ったとき、かまどに火をおこすところから料理をやったことがある。割り木を積んだ上に、一枚ずつ丸めた新聞紙の玉をいくつものせて、まずそれに火をつけるのだ。木に火がつくまでがなかなか大変で、そのとき生まれて初めて「火吹き竹」なるものも使った。やがて赤々と燃えだした火は美しく、それを見ているだけで楽しい経験だったが、火を鑑賞するだけで終わるわけもない。そこから大鍋に野菜や肉をぶちこんでビーフシチューを作ったのだが、湯を沸かすだけで一苦労で、煮込むからといって弱火にするのも簡単なことではない。夏のことで全身汗だく、しかも軍手をした手はすすまみれ、終わるころにはぐったり疲れてしまっていた。キャンプならいざしらず、毎日の仕事であれば、晩ご飯ひとつ作るのがどれほど大変なことだったか、ガスコンロのない時代のことがしのばれたのだった。だが、いまやこの「不便」は、わざわざお金をかけて求める経験なのである。

便利なものは、確かに日常を便利にしてくれるが、楽しくしてくれるものではない。もちろん、新しい電化製品を買った当初は楽しいが、じきそれにも慣れてしまうと、もはや何の感動もなくなる。

だからこそ、人は不便を求める。キャンプばかりではない。釣りにせよ、登山にせよ、多くのレジャーは「不便」を求めるものだ。そういうときの「不便」は「楽しい」。ふだん、風呂の水を入れて、と母親から頼まれて、蛇口をひねることさえ面倒がって、ぶうぶう言う子供が、そういうときなら水汲みだろうが、薪割りだろうが嬉々としてやるだろう。

なぜか。
それは、ふだんの料理をしたり、風呂の水を入れたり、風呂を沸かしたり、ということは、日常を回していく段取りのひとつではあっても、行動の目的ではないからだ。
ところが晩ご飯の支度に火をおこすところから二時間、三時間かかるとすると、晩ご飯を作ることだけで、夕方の大仕事になってしまう。それから食事をすませ、食器を洗い、後かたづけまですませてしまえば、時間も労力もとられるが、その時間は満たされる。

キャンプに行けば、夕食づくりは一大イヴェントだ。言葉を換えれば、古い時代を擬似的に体験しているともいえる。古い時代ならあたりまえの過ごし方でも、いまのわたしたちにとっては新鮮な体験だ。

ところがスーパーでお総菜を買ってくるとしよう。それをひろげ、食事をすませ、たとえ片づけたとしても、時間も労力もかからない。今度はそこで残った時間を、別のことで満たさなくてはならない。行動の目的を、自分で見つけてやらなければならなくなるのだ。それをTVを見るなどして漫然と埋めてしまえば、ああ、今日も一日が過ぎてしまった……ということになる。

ところがTVを見ても、雑誌を見ても、さらに「便利」を謳った商品があふれている。その「便利」を手に入れるために、わたしたちは、いまの「便利」で空いた時間を埋めようとするのだ。その結果、わたしたちはどんどん忙しくなってくる。

さて、いまから97年前、この「便利さ」に警鐘を鳴らした人物がいる。
開化の潮流が進めば進むほど、また職業の性質が分れれば分れるほど、我々は片輪な人間になってしまうという妙な現象が起るのであります。言い換えると自分の商売がしだいに専門的に傾いてくる上に、生存競争のために、人一倍の仕事で済んだものが二倍三倍乃至四倍とだんだん速力を早めておいつかなければならないから、その方だけに時間と根気を費しがちであると同時に、お隣りの事や一軒おいたお隣りの事が皆目分らなくなってしまうのであります。こういうように人間が千筋も万筋もある職業線の上のただ一線しか往来しないで済むようになり、また他の線へ移る余裕がなくなるのはつまり吾人の社会的知識が狭く細く切りつめられるので、あたかも自ら好んで不具になると同じ結果だから、大きく云えば現代の文明は完全な人間を日に日に片輪者に打崩しつつ進むのだと評しても差支ないのであります。

それ以前の時代なら、ひとりの人間がなんでも自分でやらなければならなかった。ところが社会的分業が進むに連れ、人は自分の専門以外は何もわからなくなってしまう、というのである。それを漱石は「不具」と呼ぶ。
現今のように各自の職業が細く深くなって知識や興味の面積が日に日に狭められて行くならば、吾人は表面上社会的共同生活を営んでいるとは申しながら、その実銘々孤立して山の中に立て籠っていると一般で、隣り合せに居を卜(ぼく)していながら心は天涯にかけ離れて暮しているとでも評するよりほかに仕方がない有様に陥って来ます。これでは相互を了解する知識も同情も起りようがなく、せっかくかたまって生きていても内部の生活はむしろバラバラで何の連鎖もない。ちょうど乾涸びた糒(ほしい)のようなもので一粒一粒に孤立しているのだから根ッから面白くないでしょう。人間の職業が専門的になってまた各々自分の専門に頭を突込んで少しでも外面を見渡す余裕がなくなると当面の事以外は何も分らなくなる。また分らせようという興味も出て来にくい。それで差支ないと云えばそれまでであるが、現に家業にはいくら精通してもまたいくら勉強してもそればかりじゃどこか不足な訴が内部から萌して来て何となく充分に人間的な心持が味えないのだからやむをえない。

便利を求めた結果、「孤立」して「根ッから面白くない」状態にいることになってしまう。

ここで漱石は文学を読むことで、ほかの人間に対する興味を抱くことができ、ほかの人びとともつながることができる、という「処方箋」を書いてみせる。

だが、おそらくこれは「文学」に限ることではないだろう。漱石は「道楽」という言葉でそれを呼んでいるが、「楽しみ」と呼んで差し支えはないだろう。

単に時間を埋めるような「楽しみ」ではない。もっと日々の「目的」になるような「楽しみ」。自分がそのなかで「できる」ことが増え、上達できるような。時間をかけて、楽しみ続けるような。

だから、「道楽者」になろう。

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