今日から5日間ぐらいをめどに、トルーマン・カポーティの『ミリアム』を訳していきます。
老婦人が見ず知らずの女の子と知り合いになる。妙になれなれしいこの子はいったいだれなのか。婦人とはどういう関係にあるのか。
不思議な話です。
原文はhttp://www2.r8esc.k12.in.us/socratic/resources/Miriam.htmlで読むことができます。
ミセスH.T.ミラーがイースト・リヴァーにほど近い、ブラウンストーン造りの屋敷を改装した快適なアパートメント(二間に小さな台所)で一人暮らしを初めてから数年になる。ミセス・ミラーは寡婦だった。H.T.ミラー氏がそれ相応の保険金を残してくれていたのである。興味の対象の範囲は限られていて、話に興ずる友だちもなく、角の食料品店よりも遠くへ出かけることもまれだった。同じ建物の住人も、ミセス・ミラーのことは知らないようだった。ありふれた服装、短い鉄灰色の髪を無造作に波うたせている。化粧もせず、平凡で、人目を引くところのない顔立ち、誕生日が来て六十一歳になった。自分から何かをすすんでやるようなこともない。二間の部屋を塵一つない状態に保ち、ときたま煙草を吹かし、自分のために食事の用意をして、カナリアを一羽、飼っていた。
そんなときにミリアムに会ったのだった。雪の降る夜だった。夕食の皿を乾かしたミセス・ミラーが夕刊にざっと目を通していると、近所の映画館でやっている映画の広告が目を留まった。タイトルがなんだかおもしろそうで、あたふたとビーヴァーのコートに袖を通すとと、雨靴の紐を結んで、アパートメントをあとにしたのだが、玄関のあかりをひとつだけつけたままにしておいた。暗闇ほどミセス・ミラーの不安をかき立てるものはなかったからだ。
細かな雪が静かに降っていたが、まだ舗道に残ってはいなかった。川からの風が交差点を吹きすぎる。ミセス・ミラーは頭を下げて、真っ暗な穴を掘り進むモグラのように一心不乱に先を急いだ。ドラッグストアでペパーミントのキャンディーをひとふくろ買った。
チケット売り場の前には長い列がのびている。その最後尾に並んだ。入場までいましばらくお待ちください、と疲れた声がうめくように言った。ミセス・ミラーは皮のハンドバッグをひっかきまわして、チケット代きっかりの小銭をかき集めた。列の人々はのんびり待っているようで、何かおもしろいことはないかしら、と見まわしていたミセス・ミラーは、ふと、入り口のひさしの下、端のほうに、少女が一人立っているのに気がついた。
少女の髪は、ミセス・ミラーがこれまで見たこともないほど長く、奇妙でもあった。白子のように、まったくの銀白色だったのだ。腰まで届くその髪は、つややかに、まっすぐ垂れていた。か細くいかにもはかなげな体つきである。簡素ではあるが独特の優雅な雰囲気で立つ少女は、両手の親指だけを、仕立ての良い茄子紺のヴェルヴェットのコートのポケットに突っこんでいた。
ミセス・ミラーは奇妙なほどに胸がドキドキしてしまい、自分のほうにちらりと目をやった少女に向かって、優しく笑いかけたのだった。少女は歩いてくると言った。「もしよかったらお願いをきいていただけませんか」
「ええ、喜んで。わたしにできることだったら」とミセス・ミラーは答えた。
「あのね、すごく簡単なことなの。わたしの切符を買ってくださったらいいのよ。あの人たち、そうでもなきゃわたしを入れてくれないんだもの。お金ならここにあるの」そういうと、優雅な手つきで十セント硬貨を二枚、五セント玉を一枚渡した。
ふたりは一緒に劇場に入った。案内係りがふたりを休憩所に案内した。映画が終わるまで二十分あったからである。
「なんだかほんものの犯罪者になった気分」ミセス・ミラーははしゃいだようにそう言いながら、ソファに腰を下ろした。「こういうことは法律違反なのよね? ほんと、悪いことじゃなかったらいいと思うわ。あなたのお母様はあなたがどこにいるかご存じなんでしょう? そうよね?」
少女はなにも答えなかった。ボタンを外すと、コートをたたんで膝の上に置く。下に着ているワンピースは、上品な紺色のものだった。首にはゴールドのチェーン、繊細で音楽的な印象を与える指先でそれをもてあそぶ。もっとよく見ようとしたミセス・ミラーは、少女がほんとうに際立っているのは、髪の毛ではなく、その目にあるのだ、と考えた。ハシバミ色の目は、落ち着き、子供っぽさはどこにも見あたらない。その目が大きいために、少女の小さな顔は、あやうく目でいっぱいになりそうだった。
ミセス・ミラーはペパーミントのキャンディを差し出した。「お名前はなんていうの?」
「ミリアムよ」そう答えたのだが、その声には奇妙な響きがあった。そんなこと、よく知っているでしょう、とでもいうような。
「あらあら、それはおもしろいわね。わたしの名前もミリアムなのよ。ミリアムなんてそこまでありふれた名前ではないわよね。まさかあなたのラストネームはミラーなんかじゃないわよね?」
「ミリアム、ってだけ」
「だけどそれは変じゃなくて?」
「いくぶんかは」ミリアムはそういうと、ペパーミントのキャンディを舌の上で転がした。
ミセス・ミラーは赤くなって、居心地悪げに座り直した。「あなたは小さなお嬢さんにしてはずいぶんたくさんのボキャブラリをお持ちね」
「そうかしら?」
「そう思うわ」そう答えたミセス・ミラーは、あわてて話題を変えた。
「映画はお好き?」
「実際のところはよくわからない」ミリアムは答える。「これまで見たことがないんだもの」
休憩所は女性でいっぱいになりだしている。ニュース映画の爆弾が爆発するような音が遠くで響いた。ミセス・ミラーはハンドバッグを小脇にはさんで立ち上がった。「席に座りたいのなら、そろそろ行った方がよさそう」そうしてこう言い添えた。「お会いできてよかったわ」
ミリアムはかすかにうなづいてみせた。
(この項つづく)
老婦人が見ず知らずの女の子と知り合いになる。妙になれなれしいこの子はいったいだれなのか。婦人とはどういう関係にあるのか。
不思議な話です。
原文はhttp://www2.r8esc.k12.in.us/socratic/resources/Miriam.htmlで読むことができます。
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ミリアム
ミリアム
トルーマン・カポーティ
ミセスH.T.ミラーがイースト・リヴァーにほど近い、ブラウンストーン造りの屋敷を改装した快適なアパートメント(二間に小さな台所)で一人暮らしを初めてから数年になる。ミセス・ミラーは寡婦だった。H.T.ミラー氏がそれ相応の保険金を残してくれていたのである。興味の対象の範囲は限られていて、話に興ずる友だちもなく、角の食料品店よりも遠くへ出かけることもまれだった。同じ建物の住人も、ミセス・ミラーのことは知らないようだった。ありふれた服装、短い鉄灰色の髪を無造作に波うたせている。化粧もせず、平凡で、人目を引くところのない顔立ち、誕生日が来て六十一歳になった。自分から何かをすすんでやるようなこともない。二間の部屋を塵一つない状態に保ち、ときたま煙草を吹かし、自分のために食事の用意をして、カナリアを一羽、飼っていた。
そんなときにミリアムに会ったのだった。雪の降る夜だった。夕食の皿を乾かしたミセス・ミラーが夕刊にざっと目を通していると、近所の映画館でやっている映画の広告が目を留まった。タイトルがなんだかおもしろそうで、あたふたとビーヴァーのコートに袖を通すとと、雨靴の紐を結んで、アパートメントをあとにしたのだが、玄関のあかりをひとつだけつけたままにしておいた。暗闇ほどミセス・ミラーの不安をかき立てるものはなかったからだ。
細かな雪が静かに降っていたが、まだ舗道に残ってはいなかった。川からの風が交差点を吹きすぎる。ミセス・ミラーは頭を下げて、真っ暗な穴を掘り進むモグラのように一心不乱に先を急いだ。ドラッグストアでペパーミントのキャンディーをひとふくろ買った。
チケット売り場の前には長い列がのびている。その最後尾に並んだ。入場までいましばらくお待ちください、と疲れた声がうめくように言った。ミセス・ミラーは皮のハンドバッグをひっかきまわして、チケット代きっかりの小銭をかき集めた。列の人々はのんびり待っているようで、何かおもしろいことはないかしら、と見まわしていたミセス・ミラーは、ふと、入り口のひさしの下、端のほうに、少女が一人立っているのに気がついた。
少女の髪は、ミセス・ミラーがこれまで見たこともないほど長く、奇妙でもあった。白子のように、まったくの銀白色だったのだ。腰まで届くその髪は、つややかに、まっすぐ垂れていた。か細くいかにもはかなげな体つきである。簡素ではあるが独特の優雅な雰囲気で立つ少女は、両手の親指だけを、仕立ての良い茄子紺のヴェルヴェットのコートのポケットに突っこんでいた。
ミセス・ミラーは奇妙なほどに胸がドキドキしてしまい、自分のほうにちらりと目をやった少女に向かって、優しく笑いかけたのだった。少女は歩いてくると言った。「もしよかったらお願いをきいていただけませんか」
「ええ、喜んで。わたしにできることだったら」とミセス・ミラーは答えた。
「あのね、すごく簡単なことなの。わたしの切符を買ってくださったらいいのよ。あの人たち、そうでもなきゃわたしを入れてくれないんだもの。お金ならここにあるの」そういうと、優雅な手つきで十セント硬貨を二枚、五セント玉を一枚渡した。
ふたりは一緒に劇場に入った。案内係りがふたりを休憩所に案内した。映画が終わるまで二十分あったからである。
「なんだかほんものの犯罪者になった気分」ミセス・ミラーははしゃいだようにそう言いながら、ソファに腰を下ろした。「こういうことは法律違反なのよね? ほんと、悪いことじゃなかったらいいと思うわ。あなたのお母様はあなたがどこにいるかご存じなんでしょう? そうよね?」
少女はなにも答えなかった。ボタンを外すと、コートをたたんで膝の上に置く。下に着ているワンピースは、上品な紺色のものだった。首にはゴールドのチェーン、繊細で音楽的な印象を与える指先でそれをもてあそぶ。もっとよく見ようとしたミセス・ミラーは、少女がほんとうに際立っているのは、髪の毛ではなく、その目にあるのだ、と考えた。ハシバミ色の目は、落ち着き、子供っぽさはどこにも見あたらない。その目が大きいために、少女の小さな顔は、あやうく目でいっぱいになりそうだった。
ミセス・ミラーはペパーミントのキャンディを差し出した。「お名前はなんていうの?」
「ミリアムよ」そう答えたのだが、その声には奇妙な響きがあった。そんなこと、よく知っているでしょう、とでもいうような。
「あらあら、それはおもしろいわね。わたしの名前もミリアムなのよ。ミリアムなんてそこまでありふれた名前ではないわよね。まさかあなたのラストネームはミラーなんかじゃないわよね?」
「ミリアム、ってだけ」
「だけどそれは変じゃなくて?」
「いくぶんかは」ミリアムはそういうと、ペパーミントのキャンディを舌の上で転がした。
ミセス・ミラーは赤くなって、居心地悪げに座り直した。「あなたは小さなお嬢さんにしてはずいぶんたくさんのボキャブラリをお持ちね」
「そうかしら?」
「そう思うわ」そう答えたミセス・ミラーは、あわてて話題を変えた。
「映画はお好き?」
「実際のところはよくわからない」ミリアムは答える。「これまで見たことがないんだもの」
休憩所は女性でいっぱいになりだしている。ニュース映画の爆弾が爆発するような音が遠くで響いた。ミセス・ミラーはハンドバッグを小脇にはさんで立ち上がった。「席に座りたいのなら、そろそろ行った方がよさそう」そうしてこう言い添えた。「お会いできてよかったわ」
ミリアムはかすかにうなづいてみせた。
(この項つづく)
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