陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

言葉と経験

2010-03-19 22:30:25 | weblog
さて、昨日の話のつづき。

わたしたちは自分の感じた曖昧な感覚を言葉にするために、さまざまな本を読んだり批評を読んだりする。そうして「西も東もわからない」というレトリックを知ることで「不安な、寄る辺ない気持」を自分の内側に発見した女の子のように、言葉をストックしながら、いろんなことを理解していく。そうして、今度はストックされた言葉を通して、さまざまな経験を見たり、理解したりするようになっていく。

ストックした言葉によって、自分が経験したのはこういうことだったのか、と理解するばかりではない。自分はやったことがなくても、単に言葉のみを蓄積することで、経験したような気になることもあるのだ。

たとえば実際にはボールをさわったことがない人でも、毎日毎日野球中継をテレビで見たり、ラジオで聞いたりしていれば、野球がどんなものかわかったような気になる。監督の采配を批判したり、あのバッターがどうして打てないか、もっともらしく話すこともできるようになる。

けれども、実際にやったことのない人は、ほんとうには経験していないので、わからない部分がどうしてもある。テレビの野球中継を欠かさず見て、いっぱしのことが言える「お茶の間野球評論家」には、硬球をバットで打ったとき、手がどれだけ痛いものか、決して知ることがない。だから「球を恐れちゃいかん」「向かっていけ」などということが平気で言える。自分がわからない部分があるということが、わからないのだ。自分がやっているのは、ただ、言葉を左から右へと動かし、組み合わせているだけで、自分の体を介在させていない、ということに気がついていない。

わたしが言いたいのは、あることの経験がない人が、批判や批評をしてはいけない、ということではない。小説を書いたことがなくても、自分がストックしている「借り物」の言葉を組み合わせて、自分の感想を言えば良いし、音楽にしても同じことだ。それでも、自分の理解は、自分の限られた知識と感受性と言葉という圧倒的な制約の内にいること、そうして、自分は小説の書き手や音楽の作り手とはちがって、その作品に自分の体を介在させてはいないことを忘れるべきではないだろう。

* * *

その昔、英会話教室のバイトをしていたときのこと。

何ヶ月かに一度の割合で、受講生に授業や講師の感想を書いてもらっていた。だいたい、おもしろかった、という類の当たり障りのない感想か、授業中に話すスピードが速すぎて聞き取れない、といった具体的な注文のどちらかであることがほとんどだったのだが、あるとき、講師に対する批判が出ていたことがあった。

彼の教え方は~で、そういうやり方をしていてはわからない、△△に関しては……としているのだが、それもよくない、といった具合である。

そう言われた講師は、見かけは若かったけれど(要するに、二十代の後半の、金髪碧眼のハンサムなお兄ちゃんだったわけだ)、教えることに関してはかなりのヴェテランで、経歴の面でも申し分のない人だったので、こちらも驚いて、すぐに情況を確かめた。

当該の講師はそれを聞いて、顔を真っ赤にして怒り出した。彼女(その批判をしたのは、若い女性だった)はいったい何をわかっているというのか。どこかで何ごとか、教えた経験があるのか。自分はどこそこの大学で修士号も取っているし、ここに来る前に、香港で何年、日本で何年教えている。何もわからないくせに、教え方の批判をするとは何ごとか。英語の教え方を生徒に教えてもらうには及ばない、といったのである。

自分はもうその生徒を教えるつもりはない、と言い出し、そんなアンケートを採ることまで批判は及んで、ほんとにもう大変だった。

それを書いた女の子にも話を聞いた。
話を聞く前には、そんな批判をするぐらいだから、てっきり別の講師に変わりたいのだろうとばかり思っていたのだが、そう切り出すと相手が驚いたのに、こちらも驚いた。
よくよく話を聞いてみてわかったのは、彼女はその講師に不満があったどころではない。逆に、自分がいかに英語がよくわかっているかを相手に印象づけようとして、「わたしはこんなによくわかっている、わたしはこんなにやる気がある」とアピールしようとして、そんなことを書いたのである。

そう言われてみれば、映画評などでも、映画の内容そっちのけで、自分がどれだけその映画に詳しいかのアピールに余念のないものを見ることがある。批判にしても、「それがわかっている自分」「こんなに詳しい自分」をアピールするためにやっている、批評だかなんだかよくわからないようなおしゃべりが、確かに少なくない。

そんなものを目にしたときは、つまらないものを読んでしまった、と舌打ちすればいいだけの話だが、そんな批評を受けた側はたまったものではないだろう。

教わっている側は、教えている側のことはわからない。
作品の受け手は、作り手の側のことはわからない。
そうして自分が両方の側に立ってみて初めて、わかることはたくさんあるのだ。

言葉をストックすることは、わたしたちに経験の意味を教えてくれる。けれども、言葉のストックは経験の変わりにはならない。

どんなヘボなプロ選手も、お茶の間野球評論家の技術論には耳を傾けないだろう。それがどれほどもっともらしく聞こえたとしても。