陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

おぬしも悪よのう

2010-03-25 23:22:31 | weblog
いまは時代劇そのものがテレビから駆逐されつつあるのかもしれないのだが、昔、テレビの時代劇が好きで『水戸黄門』だのなんだのの再放送を夕方やっているのを、ほぼ毎日のように見ていた友だちがいた。
何度かつきあって見たことがあるのだが、悪家老や悪代官などが悪徳商人と「越後屋、おぬしも悪じゃのう。ぐふふふ……」などと密談する、という場面が、毎回のように出てきていた。

そんな場面で何を密談するかというと、クーデターを画策しているなどということは全然なくて、たいていは私腹を肥やす算段なのである。それも、なぜもう少し深謀遠慮の画策をしないのか不思議なのだが、あきれるほど単純に、悪徳商人の便宜を図ってやるとか、人びとを苦しめる(違法な税金とか、日々の暮らしに必要なものの値段を釣り上げるとか)単純で見え見えの手口で金儲けを企むのである。そうして悪家老もしくは悪代官は「越後屋、おぬしも悪じゃのう。ぐふふふ……」と袖の下をもらって、片手で扇子をもてあそびながら、もう一方の手は脇息にもたせかけて笑うのである。「おぬしも」と副助詞「も」がついているのは、あなたもわたしも悪人ですね、という確認をしているのだ。

たいていは殿様は、自分の家来が人民を苦しめ、私腹を肥やしてていることを知らないほどボンクラである。ボンクラを頭に戴いて、家来たちはこぞって私腹を肥やしているのだ。まるでヴェトナム戦争の頃の南ヴェトナムのようだが、そこにはホー・チ・ミンは現れず、クーデターも起こらない。幕藩体制というのは、内実はともかく、システムとしては幕末になるまで揺るぎのないものだった、ということか。

ともかく、こうした悪家老と悪徳商人のタッグチームは、個人の資産としてはたいそうなものであっても、藩政レベルでいけば、たかの知れた金を手に入れようと、悪いことをし、人びとを苦しめる。そこで苦しんでいることに気が付いた正義の味方が、彼らが悪の張本人であることをつきとめる。だが、悪のタッグチームは罪の露見を怖れて、彼らを殺そうとする。実際に、レギュラーではない、その週だけ正義の味方と共に行動する人は、殺されてしまったりする。彼らの活躍によって動かぬ証拠をつきつけられた悪のタッグチームは、往生際の悪いことに正義の味方に反撃を試み、最後的にやられてしまう。ボンクラな殿様は、最後に自分の不明を恥じ、これからは心を入れ替えることを正義の味方に約束し、正義の味方は去っていく……という筋書きである。

当時、わたしは「ほんとうにこんな筋書きでいいのか?」と思っていた。

登場する悪人というのは、正義感もなければ倫理観もない。政治的理念など薬にするほどもない。組織力もなければ、人間的魅力もない。金に意地汚い割りには、みみっちい(悪事の露見を防ぐために、なにがしかの費用を割いて、適切な人員配置をしている気配もない)。なかでも最大の特徴は、頭が悪い、ということだ。こんな単純な手口しか考えつけなくて、よくその地位(豪商であるとか、代官職や家老職)に就けたなあ、と不思議になってしまうほどなのである。おまけに簡単にやられてしまうほど弱い。

こんな連中が「悪」の首魁だとしたら、こんな連中をのさばらせているような人たちというのは、どれほどしょぼいのだろう、とちょっと不安になってくるのだが、だからこそ「正義の味方」は毎週毎週、日本各地で出番があるのかもしれない、と思ったものだった。

時代劇のニーズは減ったのかもしれないが、こうした単純でわかりやすい「悪」というのは、未だにいろんなところでのさばっている。

映画『アバター』もそうだった。
『アバター』を観て、まず思ったのは、「おお、これはディズニー長編アニメーション『ホカポンタス』ではないか」ということだったのだが、最後はジョン・スミスが本国に帰る『ホカポンタス』ではなく、協力して新しい社会を作る『ダンス・ウィズ・ウルブス』だった。

ともかく、ここで「悪」はその星にある地下資源を狙う大企業の手先と、植民星の支配を目論む海兵隊なのである。彼らはなんの理念もなく、環境破壊に対する罪悪感もなければ、原住民に対する敬意もない。テレビドラマの悪家老一味とはちがって、機械文明を背景にしているため、確かに強くはあるのだが、立ちあがった自然の猛威を前にすれば、結局手もなくやられてしまう。

主人公は海兵隊の一員で、原住民の情報をスパイする役目を担っていたのだが、やがて自分が属する側こそが「悪」であることに気づき、悪の側と訣別する。
つまり、ここでも時代劇と同じく、どちらが「悪」でどちらがが「正義」なのか、が自明なのである。「悪」の側の代表格、悪代官に該当する海兵隊隊長も、越後屋に相当する大企業の手先すらも、自分たちが「悪」であることを知っているのだ。それを正当化する貧弱な論理はあるにはあるのだが。

だが、それにしても粗雑な理屈もあるものだ。自分が属している組織が「悪」なのか「正義」なのか、いったい何に照らし合わせてそんなことを言えるのか。誰にとっての「悪」なのか、誰にとっての「正義」なのか、そうしてその判断を下せるのは誰なのか。

確かに、わたしたちを取り巻く情況は、誰にもはっきりしたことがわからないものである。自分がどちらの側にいるのか、はっきり知っている人はどこにもいない。だからこそ、こうした娯楽作品があるのかもしれない。

だが、こうした単純な「悪」と「正義」の図式こそが、わたしたちのものの見方に、実のところひどく影響を与えているのではあるまいか。そんなのはドラマだ、現実はそんなものではない、といいながら、ニュースを見ても「悪いのはどちらか」という見方をしているのではないか。敵-味方の単純な構造に当てはめて、観客の位置に身を置いているのではないか。