陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

サキ・コレクション「モウズル・バートンの平和」その2

2010-03-03 23:20:51 | 翻訳
その2.


「あの女の言うことを聞いたかい?」低い、腹立たしげな声がクレフトンの背後から聞こえてきた。あわてて振り返ると、そこにいたのは今度は別のしわくちゃばあさんである。痩せて黄色くしなびて、たいそう腹を立てている。どうやらこれがマーサ・フィラモンその人であるらしい。この果樹園は、近隣一帯のばあさん連中のお気に入りの散歩道なのだろうか。

「嘘だね。まったくひどい嘘もあるもんだ」細々とした声が続いていく。「ベッツィー・クルートこそ魔女さね。あいつも、あいつの娘も、うす汚いネズミだ。あいつらに呪いをかけてやるからな。邪魔者めが」

 のろのろと足を引きずって向こうへ行きかけたが、納屋の戸にチョークで書いてある文字を目に留めた。

「あれはなんて書いてある?」クレフトンの方を振り返ってたずねた。

「ソーカーに投票しよう」これまでも仲裁するたびにやってきたように、臆病な人間特有の大胆さで嘘を言った。

 ばあさんは不満げに鼻を鳴らした。ぶつぶつ言う声が、色あせた赤いショールと一緒に木立の向こうへ少しずつ遠ざかっていく。クレフトンもやがて立ち上がり、家の方へ歩き出した。平和な雰囲気が霧散してしまったような気がした。

 昨日のお茶の時間は、ざわめきに満ちた楽しいひとときで、クレフトンは農家の台所がたいそう居心地良かった。ところが今日はどういうわけかひどく陰気で、憂鬱な気分がたれこめている。人びとも暗い顔で黙りこくったままテーブルを囲んでいた。お茶をすすれば、生ぬるく、味もなければ香りもない、仮にお祭り騒ぎの真っ最中であっても、お茶を一口すすっただけで、楽しい気分も吹き飛んでしまいそうなしろものだった。

「まずいなんて文句言わないでちょうだい」ミセス・スパーフィールドがあわててそう言ったのは、クレフトンが自分のカップを、失礼にならないようにちらりと見たからである。「お湯が沸騰しないせいなんだから」

 クレフトンは暖炉に目をやったが、日ごろないほどに炎が激しく燃えさかり、黒い大きなやかんがかけてある。だが、その口からは細々とした湯気が、切れ切れに立ち上るばかりで、どれだけ炎にあぶられてもだんまりを決め込んでいるらしい。

「一時間以上もあの調子なの。お湯が沸こうとしないのよ」ミセス・スパーフィールドは、一部始終を説明するために言葉を継いだ。「わたしたち、呪いをかけられたんだわ」

「マーサ・フィラモンのしわざだよ」おばあさんが話に加わった。「あたしがあのおいぼれヒキガエルに仕返ししてやる。こっちも呪い返してやるんだ」

「じきに沸きますよ」クレフトンは話の奇妙な風向きを無視して言い張った。「きっと石炭が湿ってるんでしょう」

「一晩中火を焚いたところで、明日の朝どころか昼ご飯の時間になったって沸きゃしませんって」ミセス・スパーフィールドはそう言った。そうして実際、その通りになったのである。家では炒めたり焼いたりした料理でなんとかしのぎ、隣の人が親切に差し入れてくれたお茶すらも、かろうじて温かいといえるぐらいの温度でしかなかった。

「あんた、ここを出ていくつもりでしょう。何もかもすっかり案配が悪くなっちゃったからね」ミセス・スパーフィールドは朝の食卓を眺めながらそう言った。「厄介ごとが持ち上がると、雲を霞と逃げてく人は少なくないもの」

 クレフトンはあわてて、さしあたって予定を変更するつもりはないことは告げたが、内心では、最初のころに感じた心のこもったもてなしが、すっかり変わってしまったとは感じていた。探るようなまなざしが行き交い、みんな不機嫌に押し黙っている。口を開けばきつい言葉の応酬に終始するのが当たり前になってしまった。

おばあさんは日なが一日、台所か庭先にすわりこんで、ぶつぶつとマーサ・フィラモンを毒づき、呪いをかけている。こんなにも弱々しい、縮んでしまったような年寄りが、残ったわずかな力をふりしぼって、相手に不運がふりかかるよう、ふたりして呪い合っているようすは、何かしらおぞましくも、哀れをもよおすところがあった。あらゆる能力が歩調を合わせるかのように衰えていくなかで、たったひとつ、憎悪の感情だけが、弱まることも衰えることもなく、生き延びているようだった。

しかも、気味の悪いことに、老婆たちの憎しみや呪いが蒸留されて、何かしらおぞましい、ぞっとするような力が生まれていくようだった。たとえ信じたくはなくても、燃えさかる火の上にかけたやかんもなべも沸騰させることができないのは、まごうかたなき事実だったのである。クレフトンはあくまで石炭の不調で押し通そうとしたが、たきぎをくべても結果は同じ、運送屋に頼んでアルコールランプつきのやかんを配達してもらっても、やはりお湯は頑として沸騰するのを拒む。この結果を見て、不意に彼も、想像もつかないような、きわめてまがまがしい隠れた力を目の当たりにしたように思ったのだった。数キロ先、丘の開けた場所には街道が延び、行き交う自動車も見える。最新の文明を運ぶ動脈ともさほど離れていないこの村には、コウモリが巣くう古い農家があり、魔術らしきものが現実に力をふるっているらしかった。


(この項つづく)