陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ネコ道・獣道

2010-03-23 23:34:31 | weblog
わたしのところのベランダは、手すりではなく、幅30センチほどの縁が張り出しているのだが、そこはどうやらネコの散歩道でもあるらしく、たまに散歩中の彼らと顔を合わせることがある。

何種類かいるのだが、一番よく見かけるのはキジネコで、なかなか精悍な顔つきをしている。わたしが洗濯物を干している最中でも、平然と歩いてきて、わたしと目を合わせることはしないが、ぴんと伸びた尻尾から、こちらの様子を全身でうかがっていることがわかる。こちらも静かに洗濯物干しを続行していると、何食わぬ顔でそのまま歩いていく。

物干し竿に洗濯物がかかっているのは気にならないらしいが、散歩道を物でふさがれるのは不快なようだ。というのも、以前そこに洗ったスニーカーを乾かそうと載せていたら、放り出されてしまったことがあるのだ。部屋の奥にいたところ、ベランダでガタンと音がしたので、靴が風で落ちたのか、と思って見にいったら、くだんのキジネコがいた。下にスニーカーが一足、転がっていて、もう一方も邪魔だ、とばかりに、上品に片脚をあげたかと思うと、つま先の下に差しこんで、えいっ、とばかりにひっくり返して下に落としたのである。そのあと、こんなもの置くんじゃないぞ、とばかりにこちらをちらりと見て、悠然と歩いていった。先日訳したサキの「トバモリー」に出てくるネコであれば、皮肉な言葉のひとつやふたつ、投げかけられたかもしれない。以来、ネコくんの邪魔にならないよう、縁にはものを置かないようにしている。

井上靖は「道」という短篇のなかで、イヌの散歩道を「犬道」と名づけている。

井上靖を思わせる「私」という作家は、自分が仕事をしている部屋の窓から見える庭先が、犬の通り道になっていることに気がつく。そこから「獣道」ならぬ「犬道」という言葉を思いつくのである。

そこから話は、溝や水たまりなど、歩きにくいところばかり選んで歩くような小さな子供には、「犬道」ならぬ「子供道」があるという話に移り、ある画家にその話をしたところ、画家は、子供には野生の本能があって、そんな道を選ばせるのではないか、という。老人になっている画家は、自分同様、もはや若くない作家に対して、野生の動物が選ぶ「獣道」や「犬道」、その痕跡を残す「子供道」とは別に、健康のためにただただ機械的に歩く「馴染道」がわれわれには必要なのだ、と提唱する。

そこからやがて「私」の叔父の話が語られていく。
その叔父さんは明治時代、二十一歳で渡米して、アメリカ国籍も取得したのち、八十歳になったころアメリカ人のまま帰国して、郷里に小さい洋館を建ててそこにひとり暮らし、一年もしないうちに亡くなった。地元ではこの叔父さんは「アメリカさん」と呼ばれていた。というのも、毎日、きちんと背広を着て、ネクタイをしめ、磨いた革靴を履いた、りゅうとしたみなりでまったく同じコースを散歩していたからだった。

そのアメリカさんは、神社や小学校など人に会いそうな道を避けて、殺風景な野良道や、寂しげな裏道ばかりを縫うように歩いていくのである。なぜそんなことをするのか、誰もわからなかった。「馴染道」という言葉から「私」は叔父さんのことを思いだしたのだが、どうも「機械的」というのもちがう。あれはなんだったのだろう、と思っていたところに、作者の八十六歳になる母親が「あんな道は歩かない方がいい。いけない道だよ」と言い出す。

その道は過去、ふたりも神隠しに遭っている。あんな道を歩いていたから、アメリカさんも親戚廻りをするまもなく、死んでしまったのだ、と。

作者は母親の話から、こんなことを考える。

 今日、“いけない道”も“いけなくない道”もなくなっている。が、明治時代までは、“いけない道”というものがあったかも知れない。人間がふいに気が触れて山に向かって歩き出すような、そんな狂気を誘発しやすいような何らかの条件を持った道というものがあったかも知れない。
 今日、そうした道があろうとなかろうと、私には昼間歩いたアメリカさんの散歩道が、何の特色もない平凡な道でありながら、妙に魂胆でも持っている一筋縄では行かない道に見えて来た。そしてその道の上に置いてみると、私には、叔父という人間もまた全く異なった老人として目に映って来た。…(略)…

もちろん母の言った“いけない道”というものはたまたま叔父が自分の散歩道として選んだだけのことであって、叔父とその“いけない道”との間になんの関係もあろう筈はなかった。しかし、その“いけない道”というものの一点に叔父を置いてみると、叔父の姿はある烈しさを持ってくる。叔父は本当は山にでも向かって歩き出して行きたかったのではないかという気がしてくる。日本を棄ててアメリカに行き、アメリカを棄てて日本に来たのであるから、もうこの次は実際に山へでもはいってしまう以外、どこにも行き場所はなかったのである。
(井上靖『道・ローマの宿』新潮文庫)

この短篇は、この叔父さんの散歩道は「馴染道」などではなく、「犬道」や「子供道」に近い、「野生の臭いがする」という言葉で締めくくられている。

どこかに行くための道、たとえば学校へ行く道、駅へ行く道が一本しかない、という人の方が珍しいのではないか。たいていの場合、何種類かあるルートのなかのひとつをわたしたちは選んでいる。そうしてそのルートは、今日はあの道を通って帰ろう、今日はこの道を、といろいろ変えるというよりは、たいてい決まっている。

そのルートが決まっているのは、どうしてなのだろう。
もしかしたら、わたしたちの野生がその道を選ばせている……ということはないのだろうか。