陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

西も東もわからない

2010-03-18 22:16:16 | weblog
先日、こんなことがあった。

ある高校生が、こんなことがあった、と教えてくれた。
クラスのA子と話をしていて、クラスメイトのBのことが話題になった。そこで彼は「Bは高校に入ったばっかりで、西も東もわからないでいたオレに、初めて話しかけてくれたんだ」と言った。

するとその話を聞いたA子は「すごい、その表現、すごいわかる! そんな表現を発明するなんて、あんた天才じゃない?」と感激したのだという。
「西も東もわからない」なんていうありきたりの言葉を、「発明」と言われて、すごく居心地が悪かった、とその子は苦笑していた。

確かに「西も東もわからない」というのは、レトリックとしては何の目新しさもない表現である。けれどもそのレトリックをこれまで聞いたことがなかったA子にしてみれば、「西も東もわからない」という表現が、高校に入ったばかりで不安な、寄る辺なかった当時の自分の気持を、まさに的確に表現してくれた、という思いがあったのだろう。曖昧な気持、自分でも感じているかどうかさえ、はっきりわからなかったような、定かでない、移ろいやすい気分に言葉が与えられて、自分の内から世界に出現させることができた、そんな感動があったのだ。

おそらくこんな経験は、誰にもあることだと思う。
詩を読む喜びというのは、まさにそこにあるのだろうし、本を読んだ後、巻末の解説を読むのも、映画を観たあとでレビューを読むのも、あるいはスポーツを見たあとでも、わたしたちはそれについて書かれたものを読みたいと思う。劇的な体験をしたあともそうだ。それはひとえに、自分の中にあるような気がする「何ものか」に言葉を与えたいからにほかならない。そうして、まさに自分の内側から出てきたとしか思えないような言葉にめぐりあったとき、「西も東もわからない」という言葉にめぐりあった女の子と同じように、感動するのだろう。

けれど、考えてみたら不思議である。
なぜ自分の中にある「感じ」を、他人の言葉の中に探さなければならないのか。自分の経験は、自分だけのものなのではないのか。

そうではないのだろう。
おそらく経験を成り立たせているのは、本来自分には属さない言葉だし、さらにもっと言ってしまえば、「自分」というものを成り立たせているのも、言葉なのだ。

「自分」というのは、自分にとってかならずしも自明な存在ではない、というより、どこまでいってもよくわからないものだ。考えても考えてもわからないから、適当なところで見切りをつけて、出来合いの類型で納得しているかもしれないが、考えれば考えるほどわからなくなってくる。だから、何かにぶつかるたび、自分はこうではない、自分はそれとはちがう、あの人とはちがう、という形で、自分を少しずつ確かめていくのだろう。

ひとつの言葉やレトリックを知ることは、自分をひとつ知ることだ。
そんなふうに考えていくと、なんとなく楽しくなってきません?