陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

ロシアン・ルーレット

2010-03-20 22:38:03 | weblog
病院の定期検診で、たまに血液検査を受けることがある。ところがわたしの腕は血管が出にくいので、看護師さんに余分な苦労をかけることになる。
運が悪ければ、血管をさぐりあてるまでに、三度、四度と注射針を刺されることになる。

こういうのも相性というのがあるのか、以前、何度やってもうまくいかない人がいて、その人に会うと、こちらもあちゃーっという気持になるし、向こうも何ともいえない顔になって苦笑いしていたものだった。おそらく、また失敗したらどうしよう、というプレッシャーのせいで、よけいうまくいかなかったのだろうと思う。その人にやってもらうたびに、「ごめんね~」「ごめんね~」と言われながら、こちらも申し訳ない思いになっていたものだった。
ほかの人は、そこまで失敗するわけでもない。中には一発で成功する看護師さんもいて、こういうのはロシアン・ルーレットみたいなものだなあ、と思ったものだった。

とはいえ、ルース・レンデルだったか、バーバラ・ヴァイン名義の方だったかもしれないが、ともかく彼女の小説のなかで、ロシアン・ルーレットというのは、シリンダーを回転させるうちに、弾をこめた穴は重力で下に落ちるから、弾が当たる確率は実際には低い、というのを読んだことがある。だから実際には「ロシアン・ルーレット」という喩えは正確ではないのかもしれないが。

ともかく、スーパーに行ったときでも、図書館でも、美容院でも、対応してくれる相手によって、こちらが受けるサービスの質がものすごくちがう場合がある。スーパーのレジなら、手際の悪い人を避けることもできるが、美容院だったりすると、もう大変だ。ちっとも言ったとおりにしてくれない人に切ってもらって、一ヶ月ほど鏡を見るたびに憂鬱な思いをする羽目になる。髪を洗ってもらうときでも、そのまま眠り込んでしまいそうになるほど、気持ちよく洗ってくれる人もいれば、爪が当たって痛い人もいる。図書館で、書庫請求をしたのはいいが、待てど暮らせど帰ってこなくて、そのあげく、タイトルは同じでもまったくちがう作者の本を持ってこられたこともある。

自分の担当になった人が、明らかに技術の劣る人であったときは、いったいどうしたらいいのだろう、とわたしは昔から考えているのだが、いまだにその答えが出せていない。

苦情を言う、というやり方もあるだろう。だが、自分に能力が欠けていることは、おそらく誰よりも、その人が気がついているのではあるまいか。にもかかわらず、同じ人がなんの技術の向上も見られないまま、同じような不手際をされることが実に多いのだ。そんな人に苦情を言って、果たして効果があるものだろうか。

もうひとつ、苦情を言うというのは、こちらの側にもエネルギーがいる、という問題もある。言うことで、こちらもいやな気がするし、相手の不快な顔(たとえ表に出さないにしても、そう感じているのはどうしたって伝わる)と向きあわなくてはならない。ならばいっそ、関係を絶った方がいいのかもしれない。
事実、それが原因で美容院を変わったこともある。

看護師さんの場合、こちらがいやな顔をしたりすると、相手によけいにプレッシャーを与えることになるにちがいないと思って、わたしはことさらにニコニコして、いつもお世話をかけてすいませんねえ、気になさらず、どんどんやっちゃってください、などということを言っていたような記憶があるのだが、いま振り返るに、それもあまりいい対応ではなかったように思う。少なくとも、そうしたわたしの態度は、事態を好転させることにはなっていかなかったのだから。

マクドナルドは店員の接客マニュアルがあることで有名だが、おそらくそれはマニュアルを徹底することで、対応を均質化しようとしているのだろう。けれども、そうしたマニュアルで対応されると、何となくこちらもしゃべる機械に相手をしてもらっているような、こちらまで機械になってしまったような気分になるものだ。

やはりわたしたちがタッチパネルによるものではなく、人間に対応してもらうのを求めているのは、マニュアル以上のものを求めているからなのだろう。仮に、ロシアン・ルーレットより高い確率で、あちゃーっ、という人に対応されることがあったとしても。
そんなふうに考えると、その可能性があるおかげで、きちんとした人に対応してもらったときの喜びが増すのだろうか。