もう少し「待つ」ことについて。
待つのは何もいいことばかりではない。
つい数日前も、二年前に起こった殺人事件の容疑者と見られる人物が、二年半の逃亡ののちに逮捕されたが、彼はどこかで逮捕される日を待っていたのではあるまいか。
潜伏先も引き払ってしまった。自分の顔写真がテレビでもネットでも大々的に流れている。彼の胸に去来していたのは、いったいどんな思いだったのだろう。
以前にここでも訳したことがあるが、アーネスト・ヘミングウェイの短篇に「殺し屋」という作品がある。
ダイナーにふたりの殺し屋が現れる。彼らが狙っているのはオール・アンダースン。幸い、アンダースンは店にやって来なかった。あきらめた殺し屋が、直接アンダースンのところへ向かったところで、先回りしてニックが伝えに行く。
ところがアンダースンは、ベッドに横になって壁を見つめながら逃げようともしない。「おれはもう逃げ回るのにうんざりしちまったんだ」という。
このままここにいては、殺されるのは眼に見えている。それでも彼は動けない。そこを出ていく腹が固まるのを待ちながら、横になって壁を見ているところで、話は終わる。
アンダースンは「出ていく腹」が固まっただろうか。
部屋を出たところで殺し屋に出くわすかもしれない。仮にうまく逃げたところで、つぎにまた殺し屋たちはやって来るだろう。
そしてまた逃亡すれば、追っ手を「ただ待っている状態」がこれからも続くことになる。その苦しさに自分から終止符を打つために、自分の終わりを壁を見つめながら待っている。
ここには二種類の「待つ」がある。
宙づりにされた状態で待つことと、かならず来る破局を待つことと。
宙づりにされた状態で待つことは、いったいいつまで待っていればいいのか、見当もつかない。待つことの終わりが見えない。一方、目前に迫る破局を待つのは、少なくともその終点が見えているのだから、いつまで続くかわからないということはない。宙づりにされた苦しさを思えば、破局でさえも終わりにほかならず、終わりは救いと見えるのかもしれない。
まさにフェリー乗り場で逮捕される直前の容疑者の心情は、オール・アンダースンのそれではなかったか。おそらく彼は逮捕されるのを待っていたのだろう。
だが、『殺し屋』は、一種のメタファーとも読めるのだ。
黒ずくめの二人組は、死神かもしれない。わたしたちはみな、かならず死を迎えるオール・アンダースンで、いつか来る死神を待っている状態なのである。
どうせ死ぬのだ、と、それに抵抗したり、逃げようとしたりせず、ただなすすべもなく寝っ転がって待つのか。不安や恐れを先取りして、自分で先にケリをつけてしまおうとしているだけではないのか。
だが、「終わり」を先取りしようとしたところで、それはほんとうの終わりではないのだ。わたしたちは「終わり」を自分ではどうすることもできない。
ここでわたしは別の作家の、別の短篇を思い出すのである。
井上靖の『補陀落渡海記』という作品である。
補陀落寺の住職は、三代続いて、六十一歳になると、補陀落(浄土)を目指して、たったひとり、海に漕ぎ出す補陀落渡海を続けていた。渡海といっても、小舟にのせた箱の中に入って海を行くのである。信仰によれば、かならず永遠の生が手に入る補陀落にたどりつけることになっているが、六十一歳になった主人公の金光坊は、そのことを信じることができない。だが彼の思いをよそに、渡海は既定の事実となって、人びとは勝手にその用意を始めてしまう。
渡海を前に、金光坊は自分がこれまで海に送り出した七人のようすを思い出す。その回想が、巧みな時間軸となっていき、金光坊が否応なく渡海の日へと押し出されていく様が描かれていく。渡海した僧侶たちの最期を思い返しながら、金光坊は、間近に迫る自分の死をシミュレーションし、何とか決意を固めようとする。
来るべき死を平明な気持で受け入れている上人もいたし、補陀落に行けるものと信じている者もいた。死の不安を先取りして渡海を受け入れる者もいた。
だが、金光坊はそのいずれも決意できないまま、海に押し出されてしまう。
ところが運命に翻弄されるかのように、金光坊の渡海は奇妙な成り行きになってしまうのだが、渡海前、あれほど悩み、苦しんだ金光坊は、もはや自らは何もしなくなってしまう。死ぬと思っていたときに死ななかったために、自分の終わりがいつ来ようと、それはたいした問題ではなくなってしまうのである。
自分が先取りしようとした「終わり」がほんとうの終わりでなかったと知るとき、もしかしたら、そのときが第二の「始まり」になるのかもしれない。
待つのは何もいいことばかりではない。
つい数日前も、二年前に起こった殺人事件の容疑者と見られる人物が、二年半の逃亡ののちに逮捕されたが、彼はどこかで逮捕される日を待っていたのではあるまいか。
潜伏先も引き払ってしまった。自分の顔写真がテレビでもネットでも大々的に流れている。彼の胸に去来していたのは、いったいどんな思いだったのだろう。
以前にここでも訳したことがあるが、アーネスト・ヘミングウェイの短篇に「殺し屋」という作品がある。
ダイナーにふたりの殺し屋が現れる。彼らが狙っているのはオール・アンダースン。幸い、アンダースンは店にやって来なかった。あきらめた殺し屋が、直接アンダースンのところへ向かったところで、先回りしてニックが伝えに行く。
ところがアンダースンは、ベッドに横になって壁を見つめながら逃げようともしない。「おれはもう逃げ回るのにうんざりしちまったんだ」という。
このままここにいては、殺されるのは眼に見えている。それでも彼は動けない。そこを出ていく腹が固まるのを待ちながら、横になって壁を見ているところで、話は終わる。
アンダースンは「出ていく腹」が固まっただろうか。
部屋を出たところで殺し屋に出くわすかもしれない。仮にうまく逃げたところで、つぎにまた殺し屋たちはやって来るだろう。
そしてまた逃亡すれば、追っ手を「ただ待っている状態」がこれからも続くことになる。その苦しさに自分から終止符を打つために、自分の終わりを壁を見つめながら待っている。
ここには二種類の「待つ」がある。
宙づりにされた状態で待つことと、かならず来る破局を待つことと。
宙づりにされた状態で待つことは、いったいいつまで待っていればいいのか、見当もつかない。待つことの終わりが見えない。一方、目前に迫る破局を待つのは、少なくともその終点が見えているのだから、いつまで続くかわからないということはない。宙づりにされた苦しさを思えば、破局でさえも終わりにほかならず、終わりは救いと見えるのかもしれない。
まさにフェリー乗り場で逮捕される直前の容疑者の心情は、オール・アンダースンのそれではなかったか。おそらく彼は逮捕されるのを待っていたのだろう。
だが、『殺し屋』は、一種のメタファーとも読めるのだ。
黒ずくめの二人組は、死神かもしれない。わたしたちはみな、かならず死を迎えるオール・アンダースンで、いつか来る死神を待っている状態なのである。
どうせ死ぬのだ、と、それに抵抗したり、逃げようとしたりせず、ただなすすべもなく寝っ転がって待つのか。不安や恐れを先取りして、自分で先にケリをつけてしまおうとしているだけではないのか。
だが、「終わり」を先取りしようとしたところで、それはほんとうの終わりではないのだ。わたしたちは「終わり」を自分ではどうすることもできない。
ここでわたしは別の作家の、別の短篇を思い出すのである。
井上靖の『補陀落渡海記』という作品である。
補陀落寺の住職は、三代続いて、六十一歳になると、補陀落(浄土)を目指して、たったひとり、海に漕ぎ出す補陀落渡海を続けていた。渡海といっても、小舟にのせた箱の中に入って海を行くのである。信仰によれば、かならず永遠の生が手に入る補陀落にたどりつけることになっているが、六十一歳になった主人公の金光坊は、そのことを信じることができない。だが彼の思いをよそに、渡海は既定の事実となって、人びとは勝手にその用意を始めてしまう。
渡海を前に、金光坊は自分がこれまで海に送り出した七人のようすを思い出す。その回想が、巧みな時間軸となっていき、金光坊が否応なく渡海の日へと押し出されていく様が描かれていく。渡海した僧侶たちの最期を思い返しながら、金光坊は、間近に迫る自分の死をシミュレーションし、何とか決意を固めようとする。
来るべき死を平明な気持で受け入れている上人もいたし、補陀落に行けるものと信じている者もいた。死の不安を先取りして渡海を受け入れる者もいた。
だが、金光坊はそのいずれも決意できないまま、海に押し出されてしまう。
ところが運命に翻弄されるかのように、金光坊の渡海は奇妙な成り行きになってしまうのだが、渡海前、あれほど悩み、苦しんだ金光坊は、もはや自らは何もしなくなってしまう。死ぬと思っていたときに死ななかったために、自分の終わりがいつ来ようと、それはたいした問題ではなくなってしまうのである。
自分が先取りしようとした「終わり」がほんとうの終わりでなかったと知るとき、もしかしたら、そのときが第二の「始まり」になるのかもしれない。