陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

敬語と「タメ口」

2009-11-11 23:02:52 | weblog
先日、駅のホームで中学生の男の子がふたりで話をしていた。どうやら二年か三年であるらしく、一年生から「タメ口」をきかれたことに腹が立ってしょうがないらしい。

「あいつ、オレに向かって“おぅ、××、おまえ、ここへおったんか”てゆうてんやぞ」
「ほんま、ムカつくなあ」
「むっちゃムカつく」
「今度そぉゆうことゆうてきたら、しばいたろ」

そうしよう、そうしようとまじめそうな男の子ふたりが意気投合しているのを見ていたらなんだかおかしくなってしまったのだが、当人たちにしてみたら、大問題であるらしかった。

考えてみれば、人はいったいいくつぐらいから年長者に対して「タメ口」ではない、丁寧語、敬語を使って話すようになるのだろう。

わたしたちを取り巻く人びとは、意識の中で、自分を中心とした同心円状に配置されているのがふつうだ。一番小さな円に入ってくるのは、もっとも身近な人。家族や近親者であれば、たとえ年長者であっても、敬語を使うことはない。

血縁者といっても、日ごろのつきあいがなければ同心円でも外の方になっていくだろうし、たとえ遠くに住んでいて、なかなか会えなかったとしても、親しく言葉を交わせる人もいる。つまり「身近」という言葉の「近さ」は、空間的な距離ではなく、心理的な距離なのだろう。

わたしたちが敬語を使うのは、この身近な人から少し外側、親しい人から知人にかけての人びとを相手にしたときだ。わたしたちはここに属する大勢の人と日常的に言葉を交わしているのだが、たとえ同じグループに属するといっても、相手に応じて言葉を使い分けている。そうして、それができない人は、子供っぽい人、社会的に未熟な人、と見なされ、裏表のない人、あるいは、正直な人などと、評価されることは少ないだろう(そういう一面も、実際にはなくはないのだろうが)。

わたしたちはいったいいつごろからこの面で「子供っぽく」なくなるのだろう。

幼稚園では、まだ「せんせー、あんなー、昨日なー」と口々に話していた子供たちが、小学校に上がると挙手して「3+2=5です」などと答えるようになる。やはりこの頃からではあるまいか。学年に応じて、徐々に公的な発言の割合は増えていく。六年にもなれば、「せんせー、あんなー」ではすまなくなるだろう。

そのように考えていくと、小学校というのは、勉強を教わるというより、場によって、あるいは相手によって、言葉遣いは変えていくものであることを、子供たちに訓練させる場である、といえるのかもしれない。

小学校に上がる、ということは、広い世界に入っていくことでもある。身近な人の外側にも人がいる、自分はそういう人とつきあっていく、ということを身をもって知る。そういう人とはそれにふさわしい言葉を使ってコミュニケーションをしていかなければならない、ということを学ぶのである。

先生と友だちはちがう存在だから、先生に向かってものを言うときと、友だちに向かって言うときでは、ちがう言葉遣いをすることを教わる。いや、言葉の使い方を覚えることによって、逆に、社会関係というものがあることを理解していく、と言った方がいいかもしれない。

先生を尊敬するようになったから、先生に敬語を使うのではないのだ。敬語を覚えることによって、そこから尊敬ということを学び、礼儀ということを学んでいく。上下関係、教える-教えられるという関係、子供たちは言葉を通じて学んでいくのだろう。

逆に、小学校の低学年ぐらいの段階で、相手によって言葉というものは使い分けていくものだ、ということを体得しないままだと、どういうことになるだろう。

身近な家族に使う言葉と同じ調子で、目上の人、年長者に話しかける。当然、その言葉遣いを咎められたり、叱られたりする。不適切な言葉を使ったからだ、と理解できればいいのだ。理解できなかった子供は、その相手とはそこでコミュニケーションの回路を切断してしまうかもしれない。そうやって、つぎからつぎへとコミュニケーションの回路を切断してしまって、「タメ口」でも叱られない相手とだけ、選択的にコミュニケーションするようになってしまうかもしれないのだ。このままその子が歳を取っていくと、世界は「身近な人」と「関係のない人」の二種類になっていきはしないか。

「あの子は口の利き方も知らない」という言い方がある。相手に応じた言葉遣いができない人のことだ。一般には、礼儀を知らない、という意味合いで使われる。けれども、「口の利き方」を知らないことのほんとうの問題は、自分を中心とした同心円が、身近な人、ごく親しい人、知人と呼べる人、未知の人、と広がっていくのではなく、○か×かの二者択一になっていくことなのかもしれない。

いろんな人と、さまざまなつきあい方ができる。
「社会性がある人」というのは、簡単に言ってしまえば、それだけのことなのかもしれない。