中学一年の英語で「代名詞」というものを習う。一人称代名詞として "I"、二人称として"you"、そうして三人称として"he","she","it" の三つ。男の子はJohnも太郎もheで受け、おばあさんもおねえさんも女の子の赤ちゃんも、みんなsheで受ける。それに対して、人間以外は単数であればすべてit、家で飼っている犬も、本やカップやスリッパと同じくitで受ける、と習った。シロがたとえ雄犬であっても、タマが雌猫であっても、その性別にかかわらず、人間以外にはheやsheは使わないのだ、と。
ところが文法ではそう習っても、リーダーのテキストには "He likes to sit in front of the television."(彼はテレビの前に坐るのが好きだった)という文章の「彼」は、お父さんではなく、イヌのマックスだったりした。一年のときには、動物は"it"で受けると言われたのになあ、と思ったものだ。
後年、アメリカやイギリスやカナダ、オーストラリアからやってきた語学教師に、動物は"it"で受けるか、と聞いてみたところ、"he"や"she"で受けるし、そうすべきだ、という人の方が圧倒的に多かった。"it"を使うと、人間とはちがうことを強調している印象を受ける、というのである。とりわけ家族の一員であるペット、性別ももちろん知っている彼らのことを、あえて"it"を使うことはありえない、とまで言う人もいた。
さて、昨日までここでフィリップ・K・ディックの"The Father Thing"を訳していたのだが、この the father-thingを受ける代名詞は、かならずitである。heといったら、thingのつかない本物のお父さんのことであり、thingがつく「もどき」はかならずitなのである。"it"という言葉が出てくるときは、こいつはheではないのだ、itに過ぎない、ニセモノである、おぞましい存在なのだ、という、代名詞に悪意がこめられていて、このはっきりとした区別から、改めて中学で英語を習い始めたときのことを思い出したのだった。
この短篇を改めて読み返してみれば、初期のスティーヴン・キングとの類似に驚いてしまう。男の子たちが協力してまがまがしいもの、この世ならぬものをやっつける、というのは、ブラッドベリにもあるが、"it"という代名詞にこめられた違和感、代名詞ひとつで「人間とそうでないもの」の区別を見せつけたこの言葉の使い方が、のちにキングをして『It』という長編小説を書かせたにちがいない、とわたしは思っている。
スティーヴン・キングの『It』は、よく「キングの最高傑作」みたいなことが書いてあるのだけれど、わたしとしては個人的には異論のあるところだ(わたしとしては怖さでは『シャイニング』を、ストーリィのおもしろさでは『クージョ』を推したい)。なによりも"it"の正体がクモであるところが、なんとも腰砕けのような気がするからなのだ。けれど、『it』が、ディックの"The Father Thing"を本歌取りしたものであると考えれば、それも文句はいえないかな、という気がしてくる。なにしろ「本家」ディックの"it"は、虫なのだから。
たかが虫のくせに、なんでこんなに「人間もどき」になるのだ、とか、言葉をどうして操れるようになるのだ、とかと、ディックの短篇は、いろいろ突っこみたくもなる要素はたくさんある。文章もヘタだし(原文を訳してみて、つくづくそう思った)。だが、そんな欠点をさっ引いても、なんともいえない不気味さを描きだすのは、やっぱりこの人はうまいものだな、と思う。とくに、樽の底からほんものの父親の「残骸」、薄皮一枚を取り出すところのえもいわれぬ不気味さは、いろんな部分が曖昧に残されているからこそ、最後まで残っていくのかもしれない。
欧米の昔話では、人間は悪い魔法使いによって、動物に変えられるが、動物は人間にはならない。人間のふりをする人間以外のものは、ヴァンパイヤなどの不気味な物の怪に限られる。日本のように狐が人間に化け、人間とのあいだに子供を作ったりするようなことは、欧米では考えられないのだ。やはり、根本にあるのが、動物を受ける代名詞は"it"という思想なのだろう。
ところが文法ではそう習っても、リーダーのテキストには "He likes to sit in front of the television."(彼はテレビの前に坐るのが好きだった)という文章の「彼」は、お父さんではなく、イヌのマックスだったりした。一年のときには、動物は"it"で受けると言われたのになあ、と思ったものだ。
後年、アメリカやイギリスやカナダ、オーストラリアからやってきた語学教師に、動物は"it"で受けるか、と聞いてみたところ、"he"や"she"で受けるし、そうすべきだ、という人の方が圧倒的に多かった。"it"を使うと、人間とはちがうことを強調している印象を受ける、というのである。とりわけ家族の一員であるペット、性別ももちろん知っている彼らのことを、あえて"it"を使うことはありえない、とまで言う人もいた。
さて、昨日までここでフィリップ・K・ディックの"The Father Thing"を訳していたのだが、この the father-thingを受ける代名詞は、かならずitである。heといったら、thingのつかない本物のお父さんのことであり、thingがつく「もどき」はかならずitなのである。"it"という言葉が出てくるときは、こいつはheではないのだ、itに過ぎない、ニセモノである、おぞましい存在なのだ、という、代名詞に悪意がこめられていて、このはっきりとした区別から、改めて中学で英語を習い始めたときのことを思い出したのだった。
この短篇を改めて読み返してみれば、初期のスティーヴン・キングとの類似に驚いてしまう。男の子たちが協力してまがまがしいもの、この世ならぬものをやっつける、というのは、ブラッドベリにもあるが、"it"という代名詞にこめられた違和感、代名詞ひとつで「人間とそうでないもの」の区別を見せつけたこの言葉の使い方が、のちにキングをして『It』という長編小説を書かせたにちがいない、とわたしは思っている。
スティーヴン・キングの『It』は、よく「キングの最高傑作」みたいなことが書いてあるのだけれど、わたしとしては個人的には異論のあるところだ(わたしとしては怖さでは『シャイニング』を、ストーリィのおもしろさでは『クージョ』を推したい)。なによりも"it"の正体がクモであるところが、なんとも腰砕けのような気がするからなのだ。けれど、『it』が、ディックの"The Father Thing"を本歌取りしたものであると考えれば、それも文句はいえないかな、という気がしてくる。なにしろ「本家」ディックの"it"は、虫なのだから。
たかが虫のくせに、なんでこんなに「人間もどき」になるのだ、とか、言葉をどうして操れるようになるのだ、とかと、ディックの短篇は、いろいろ突っこみたくもなる要素はたくさんある。文章もヘタだし(原文を訳してみて、つくづくそう思った)。だが、そんな欠点をさっ引いても、なんともいえない不気味さを描きだすのは、やっぱりこの人はうまいものだな、と思う。とくに、樽の底からほんものの父親の「残骸」、薄皮一枚を取り出すところのえもいわれぬ不気味さは、いろんな部分が曖昧に残されているからこそ、最後まで残っていくのかもしれない。
欧米の昔話では、人間は悪い魔法使いによって、動物に変えられるが、動物は人間にはならない。人間のふりをする人間以外のものは、ヴァンパイヤなどの不気味な物の怪に限られる。日本のように狐が人間に化け、人間とのあいだに子供を作ったりするようなことは、欧米では考えられないのだ。やはり、根本にあるのが、動物を受ける代名詞は"it"という思想なのだろう。