陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

逃亡者、潜伏者

2009-11-10 23:03:47 | weblog
マーガレット・ミラーのミステリに『まるで天使のような』という作品がある。
まあ、とにかくおもしろいんだから、読んでみてください。新品は手に入らないが、いまamazonで見てみたら、中古は五名様まで購入可能。ただし、三冊の価格はともかく、2865円というのは、ちょっといくらなんでも暴利じゃないんすかね。わたしの手元の本には「定価480円」とありますが。

ということで、そのものズバリは書かないが、結構ネタバレに近い話を書いてしまうので、本を読みたい人はこれ以下は読まないように。

マーガレット・ミラーのミステリは、失踪した人を扱ったものが多い。依頼を受けた探偵が行方不明の人物を捜していく。消えた地点から足取りを逆に辿り、時系列をさかのぼっていく。そこから浮かび上がるのは、その人物が「何をしたか」であり、その行動のさなかで関わった人びとから丹念に証言を得て、彼もしくは彼女がどんな人物であるかが少しずつ明らかになっていく。そうして、その人物の人となりが、失踪の原因となっていることがわかるのだ。

ミラーの作品では、失踪者は失踪したのではなくすでに殺されているか、殺人を犯したために潜伏しているかのどちらかだ。確かに、人が失踪するということ、つまり、その人が所属している共同体から姿を消すということは、そのぐらい、大変な場合以外にはあり得ないだろう。

『まるで天使のような』でも、それまでの人間関係を切り捨てようとしたある人物が、ある特殊な団体に身を隠す。だが、私立探偵の捜査によって、最後に一切があきらかになる。

わたしたちはときに、いまの人間関係にうんざりしてしまって、一切合切リセットして、新しい関係を築いていきたいと思うことがある。転職したり、引っ越したり、というのも、それを実行することにほかならないだろう。「知らない町を歩いてみたい」という歌もあるが、それも、言ってみればいまの人間関係から、つかのま、脱出したいなあという願望を表している。

けれども、旅行は帰っていく家があってこそ可能なのだし、転職や独立は人間関係のすべてを断ち切ることにはならない。転職したところで家族関係は続いていくし、実家を出たところで、実家とまるっきり縁が切れてしまうことにはならない。

そうしてまた、たとえある共同体から離れたとしても、ユナ・ボマーのように野山にでも住まない限り人間は、とにもかくにも何らかの共同体に属さなければならない。共同体の制約から逃れようとして、また新しい制約のなかに入っていくのだ。

どうしたって人は人間関係とは無縁ではいられないし、制約を離れることもできない。たぶんわたしたちはどこかでそれを知っているから、逆に「ちょっとだけ」離れることを夢見るのだろう。

ここ数日「潜伏」という言葉をニュースで頻繁に聞いた。
まるでミステリを地でいくような話だったが、わたしも含めて多くの人は、容疑者は逃亡してほどなく、亡くなっているのではないか、と感じていたのではないか。いまのわたしたちは、お金もなく、住む場所もなく、戸籍も、保証人もないところで生きてはいけなくなっている。ときにわずらわしくもなり、制約としか感じられないさまざまな関係が、逆にわたしたちを生かしているともいえるのだ。

逃亡した彼が生きていこうと思えば、何とか新しい共同体に属さなければならない。だが、過去も経歴も問わないような共同体は、問われないという面では気楽なように思えても、きわめてせまい、制限されたその共同体の外に出ることはできないために、極端に不自由なものだ。

高校生の頃、学校に行くために電車を待っているとき、向かいのホームに入ってきた電車を見ながら、あれに乗ってどこかに行きたいと毎日思っていた。高校を卒業したら、大学に入って家を出たら、いまよりもっと自由になれる。そうなったら、いつかそれをやってやろうと思っていた。

だが、家を出ても、少しも自由になどなれなかった。

その頃は、自由というのは、親や学校や社会が決めた規則から自由になることだと思っていたのだ。だが、どこまでいっても規則はある。規則から逸脱した自分を叱る年長者は身近にいなくなっても、逸脱したことによる不都合の責任は、かならず自分が取らなければならない。自分が他の人間と一緒に社会で生きていく限り、規則には従わなければならない。規則の外に出るのが「自由」だと考えているかぎり、自由なんてものはどこにも見つからない。

容疑者の男性の、まじめな仕事ぶり、わからないところはメモを取る、部屋には英和辞書……そんな報道を見るにつけ、胸が痛くなるような気がした。

人間、ひとつ踏み外してしまうと、どうしてこんなことに……ということになってしまうのかもしれない。
以前にもちょっと書いたが、菊池寛の『下郎元右衛門―敵討天下茶屋』のなかで元右衛門は考える。

「どうして、俺はこんなひどい悪人になってしまったんだろう。別に、おれは特別悪人に生れついたとは思えないんだが、なぜ俺がこんた大それた男になったんだろう。敵討、貧乏、女、賭変、忠義、人情、そんなものが妙に、こんぐらがってしまったんだ。そして、俺がいつの間にか、こんな悪人になってしまっているんだ。俺は悪人じゃないが」

この言葉は、そのまま彼の気持だったのかもしれない。

英和辞書を手元に置いて、彼はいったい何を読んだのだろう。
何を読むかを選んだときの彼は、「何を読むか」という小さな選択のなかで、ささやかな自由を手にしていたのだろうか。