『ザ・ホワイトハウス』というアメリカのドラマを、ちょっと前から少しずつ見ている。架空のバートレット大統領を支える「ベスト・アンド・ブライテスト」の人々のドラマである。
まだ第一シーズンと第二シーズンの半分ほどしか見ていないのだが、その中のひとつ、クリスマスの回のエピソードが気になった。
ホワイトハウスの広報部長であるトビー・ジーグラーのもとに、警察から連絡が行く。ワシントンのナショナル・モールのベンチで亡くなっていたホームレスとおぼしい人物のポケットに、トビーの名刺が入っていたのだ。どうやら凍死したらしい。その男はトビーが救世軍に寄付したコートを着ていたのである。亡くなった男の腕には朝鮮戦争に従軍したことを示す入れ墨があった。トビーは男の近親者に連絡を取ろうとする。
その男には同じホームレスの弟がいた。弟は、知的障害があって、事態がいまひとつ飲み込めていない様子である。そこでトビーはそのホームレスの男を「戦没者」としてアーリントン墓地に正式に埋葬してやろうと考える。
葬式には、ホームレスの弟と、公園で生前の姿を何度か見ていた元軍人である売店の男、そうして大統領の秘書を務める、子供をふたりヴェトナム戦争で亡くした女性が参列する。そうして、正式な手続きに則った、軍人としての葬式を経て、そのホームレスの男はアーリントン墓地に埋葬される、というものだった。
これを見ながら、わたしは葬式ということを改めて考えたのだった。
それを見るまで、葬儀というのは、生きている人のためにやるものだ、とずっと思っていたのだ。だが、トビーは「生きている人」のために葬儀を行おうとしたのではない。故人のために、戦争に従軍し、アメリカのために戦い、おそらくその後の人生に、大きな影を落としたのもその戦争だったのだろう。そうした人間のために、きちんとした葬儀を執り行ってやろうとしたのである。
ドラマを見て、初めて気がついたのは、わたしがそれまで持っていた「生きている人間のための葬儀」という考え方は、あくまでも、人間を「意識」として見る見方だったのだ、ということだった。意識がなくなった身体は、もはや「なきがら」であって、その人ではない。だからこそ、葬儀はその「なきがら」に別れを告げるための、生きている人びとのための式である、というふうに考えていたのだ。
けれども、どうして「なきがら」といえるのだろう。
もし、人間が意識だけの存在ではない、身体を含めてその人であるのだとしたら、その人の意識がなくなった身体も、未だその人であり続けるはずではないか。埋葬され、土に還るまでは、「その人」はいつづけるのではないか。
いまのわたしたちの社会は、意識がなくなった「その人」は、そのまま土に還ることができるようにはなっていない。だからこそ、生きている人間が、その代わりに、その人の身体を土に返さなければならない。お葬式というのは、そのためにあるのではないのだろうか。
これまで、何度か葬儀に参列してきた。
ある先生のお葬式では、さまざまな年代の、その先生の教え子が一堂に会し、久しぶりに顔を合わせた人たちの輪があちこちにできて話がはずんでいた。みんな涙を流しながら、一方で、昔と変わらない、あるいはすっかり変わってしまった旧友たちに再開して、みんなが笑っていた。
曾祖母の式でも、滅多に顔を合わさない親戚が、日本中から集まってきたものだった。そんなとき、ひとりの人の死はさまざまな人を結びつけるのだ、と思ったものだ。そんな経験があったから、よけいに、葬儀は生きている人のためにある、と考えるようになったのだろう。
けれど、それだけではないのかもしれない。
「袖振り合うも多生の縁」というが、トビーと故人は、生前、何の関係もなかった。単に彼のコートを着ていたというだけのつながりでしかない。それでも、「土に返す」役目を誰かがしなければならないのなら、そうしてそれがいまの自分にできるのなら、自分がその役目を担おうとトビーは考えたのではあるまいか。
おそらく、葬儀は、残された人のためにのみあるのではない。
ひとが土に還るまでが「人間」であるのなら、残された人が土に返してやらなければならないのだ。そのために、わたしたちは葬儀を行い、人を埋葬するのだろう。
まだ第一シーズンと第二シーズンの半分ほどしか見ていないのだが、その中のひとつ、クリスマスの回のエピソードが気になった。
ホワイトハウスの広報部長であるトビー・ジーグラーのもとに、警察から連絡が行く。ワシントンのナショナル・モールのベンチで亡くなっていたホームレスとおぼしい人物のポケットに、トビーの名刺が入っていたのだ。どうやら凍死したらしい。その男はトビーが救世軍に寄付したコートを着ていたのである。亡くなった男の腕には朝鮮戦争に従軍したことを示す入れ墨があった。トビーは男の近親者に連絡を取ろうとする。
その男には同じホームレスの弟がいた。弟は、知的障害があって、事態がいまひとつ飲み込めていない様子である。そこでトビーはそのホームレスの男を「戦没者」としてアーリントン墓地に正式に埋葬してやろうと考える。
葬式には、ホームレスの弟と、公園で生前の姿を何度か見ていた元軍人である売店の男、そうして大統領の秘書を務める、子供をふたりヴェトナム戦争で亡くした女性が参列する。そうして、正式な手続きに則った、軍人としての葬式を経て、そのホームレスの男はアーリントン墓地に埋葬される、というものだった。
これを見ながら、わたしは葬式ということを改めて考えたのだった。
それを見るまで、葬儀というのは、生きている人のためにやるものだ、とずっと思っていたのだ。だが、トビーは「生きている人」のために葬儀を行おうとしたのではない。故人のために、戦争に従軍し、アメリカのために戦い、おそらくその後の人生に、大きな影を落としたのもその戦争だったのだろう。そうした人間のために、きちんとした葬儀を執り行ってやろうとしたのである。
ドラマを見て、初めて気がついたのは、わたしがそれまで持っていた「生きている人間のための葬儀」という考え方は、あくまでも、人間を「意識」として見る見方だったのだ、ということだった。意識がなくなった身体は、もはや「なきがら」であって、その人ではない。だからこそ、葬儀はその「なきがら」に別れを告げるための、生きている人びとのための式である、というふうに考えていたのだ。
けれども、どうして「なきがら」といえるのだろう。
もし、人間が意識だけの存在ではない、身体を含めてその人であるのだとしたら、その人の意識がなくなった身体も、未だその人であり続けるはずではないか。埋葬され、土に還るまでは、「その人」はいつづけるのではないか。
いまのわたしたちの社会は、意識がなくなった「その人」は、そのまま土に還ることができるようにはなっていない。だからこそ、生きている人間が、その代わりに、その人の身体を土に返さなければならない。お葬式というのは、そのためにあるのではないのだろうか。
これまで、何度か葬儀に参列してきた。
ある先生のお葬式では、さまざまな年代の、その先生の教え子が一堂に会し、久しぶりに顔を合わせた人たちの輪があちこちにできて話がはずんでいた。みんな涙を流しながら、一方で、昔と変わらない、あるいはすっかり変わってしまった旧友たちに再開して、みんなが笑っていた。
曾祖母の式でも、滅多に顔を合わさない親戚が、日本中から集まってきたものだった。そんなとき、ひとりの人の死はさまざまな人を結びつけるのだ、と思ったものだ。そんな経験があったから、よけいに、葬儀は生きている人のためにある、と考えるようになったのだろう。
けれど、それだけではないのかもしれない。
「袖振り合うも多生の縁」というが、トビーと故人は、生前、何の関係もなかった。単に彼のコートを着ていたというだけのつながりでしかない。それでも、「土に返す」役目を誰かがしなければならないのなら、そうしてそれがいまの自分にできるのなら、自分がその役目を担おうとトビーは考えたのではあるまいか。
おそらく、葬儀は、残された人のためにのみあるのではない。
ひとが土に還るまでが「人間」であるのなら、残された人が土に返してやらなければならないのだ。そのために、わたしたちは葬儀を行い、人を埋葬するのだろう。