陰陽師的日常

読みながら歩き、歩きながら読む

問われて名乗るもおこがましいが

2009-11-20 23:12:46 | weblog
昨日のログに「竹井哲夫」名で投稿があった。何ごとかと思って見てみると、広告である。削除しようかと思ったのだが、なんとなくおかしくなってしまったので、今日はその話。

それにしても、セールス電話にしても、訪問販売にしても、「サイトへの広告依頼」と称するメールにしても、アダルトメールにしても、この人たちはなんで最初に名前を名乗るのだろう。

小学生はよく、学校の帰り道にピンポンダッシュ(ドアフォンを鳴らしてダッシュして逃げる)をやる。わたしはやっている子を見て、バカだなー、そんなくだらないことをして一体何が楽しいんだか、と思うような、子供らしさに欠けること甚だしい子供だったが、ピンポンダッシュの楽しさが、「ふだん禁じられていること」をやりながら、それを咎められる前に逃げ出すことにあるのは理解していた。禁じられることをやって、怒られるかもしれない、けれどもうまく見つかる前に逃げることに成功すると、用もないのにドアフォンを押した責任を問われずにすむ。だからドキドキするのだろうし、うまく逃げおおせたら達成感もあるのだろう。

仮に、この小学生が「竹井哲夫です」と名乗って逃げたらどうなるか。竹井哲夫君はピンポンダッシュの責任を負って、みんなを代表して罰を引き受けてくれるだろうか。そんなことはあるまい。家の人も「竹井哲夫君は、ちゃんと名前を名乗って偉い子だねえ」と思ってくれるはずもない。その子がほんとうに竹井哲夫かどうか、確かめるすべはないし、仮にわかったところで、名前だけ、ぽんと放り出されたところで、その名前をたどっていこうにも、どこにもたどりつかない。

つまり、ここからわかることは、名前はただそれだけでは「固有名」の役割を果たしていない、ということだ。「竹井哲夫」と名乗られても、彼がどこに住み、どういう仕事をし、社会のなかでどういう役割を担っているかわからないままでは、人間、男、日本人……と言っている以上のものではない。

同じ小学校の中でなら「この窓ガラスを割ったのはだれだ」「竹井哲夫がやりました」という名乗りは、行為の責任を取ることだ。住人が互いに名前を知っているような村や、同じ集合住宅の中でもそうだろう。態度の悪い社員に対して、企業にクレームをつけるときでも、名前だけで十分だ。新聞でも「署名記事」というのがあるが、それは書いた人が自分の名前を明らかにすることによって、その書いた内容に責任を取りますよ、という覚悟を明らかにしているのだ。

けれど、もっと範囲が広くなってくると、名前は所属や住所、諸関係から切り離されて、ただの名前、「単なる人名」以上の意味を持たなくなってしまう。竹井哲夫と名乗ろうが、松井秀喜と名乗ろうが、「単なる人名」なのだから、本名であっても、でっちあげであっても、まったくちがいがない。偽名、無記名、匿名とまったく同じなのだ。

彼らがまず名乗るのは、名前を名乗る人間は身元の確かな人間である、という社会通念によりかかって、自分は怪しい者ではないとアピールするためだ。だが、その社会通念での名前というのは、所属や住所や諸関係を含意するこの世界にたったひとりしかいない「固有名」としての名前である。彼らは「固有名」のふりをした「単なる人名」を呈示する。

それが証拠に、その「竹井哲夫」氏に、あなたにこちらから連絡が取りたいので、正式な会社名、法人なら法人登記されている社名、所在地、電話番号、代表者氏名を聞かせてほしい、というと、おそらくムニャムニャ……ということになってしまうはずだ。

本名であろうが、偽名であろうが、芸名・ペンネーム・号の類であろうが、名前に意味があるわけではない。意味は、その名を名乗る人間の方にある。そうしてその名を名乗る先々で、自分が名乗る名の下に責任を引き受けていく関係を作っていくたびに、その名前に意味が生じていくのだ。

そういえば『あしながおじさん』では、主人公は捨て子だったために名前がなかった。そこで「ジェルーシャ」という名前は、孤児院の院長が墓石から取り、「アボット」という名字は電話帳の一ページ目にあったのから取ったのだった。その主人公が、孤児院から出て、「世界」のなかで生き始めたときに、最初にすることが、自分を「ジュディ」に命名しなおすことだった。

ある名前を名乗るということは、その名前で生きていくということを意味する。たとえペンネームや号の類であろうと、その名を使う共同体の中では、その名で生きていくという宣言なのだ。それは、何かあったら、その名を使っている「この私」が、身体でもって責任を引き受けていく、ということだ。

竹井さん、その覚悟で名前を使っていらっしゃいます?