野口をゆく(74) 大庫源次郎物語(1)
ある時、偶然に『創造の人‐大庫源次郎の生涯』を入手しました。源次郎は、大庫輸送機株式会社の創立者です。
彼の生涯を駆け足でたどることにしましょう。
『大庫源次郎物語』は、時代は大きく変わりましたが、きっと元気をもらうことができます。
『大庫源次郎物語』をはじめます
源次郎は、明治45年2月、高砂高等小学校を卒業すると、加古郡荒井村(現:高砂市)から京都の鉄工所で、真っ黒になって働きました。
19才で大阪砲兵工廠へ、そして夜学にも通いました。
やがて、大正デモクラシーの波に乗って、労働運動が激化するなかで、源次郎は、川崎造船の争議にも参加しました。
郷里に帰って日本毛織(ニッケ)加古川工場でも組合設立運動に参加し、組合幹部として42日間のストを指導しました。ニッケの労働争議は労働者の敗北に終わり、その後、源次郎は解雇されました。
彼はくじけませんでした。昭和2年、別府町新野辺(しのべ)に大庫鉄工所を創立しました。ちっぽけな町工場でした。
まじめな仕事ぶりで、やがて多木肥料や野田醤油関西工場(キッコウマン醤油高砂工場)などから仕事が舞い込むようになりました。
昭和12年、現在の加古川市野口町に工場を移転します。
戦後、源次郎は生きるために、ナベ、カマ、パン焼き器等を製造しました。「鉄材不足していた時代で、品物は飛ぶように売れた」といいます。
戦後、大量生産、大量販売の時代になり、コンベアの生産を始めた工場は、大きく発展していくことになります。
しばらく、大庫源次郎の波乱万丈の生涯をたどることにしましょう。
*写真:大庫源次郎