ひろかずのブログ・2

79歳のおじいさんです。散歩したこと、読んだこと、嬉しかったこと、悲しかったこと、腹が立ったこと等々何でも書いてみます。

野口町をゆく(74) 大庫源次郎物語(1)

2022-08-16 09:39:08 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口をゆく(7) 大庫源次郎物語(1)

 ある時、偶然に『創造の人‐大庫源次郎の生涯』を入手しました。源次郎は、大庫輸送機株式会社の創立者です。

 彼の生涯を駆け足でたどることにしましょう。

 『大庫源次郎物語』は時代は大きく変わりましたが、きっと元気をもらうことができます。

    『大庫源次郎物語』をはじめます

 源次郎は、明治45年2月、高砂高等小学校を卒業すると、加古郡荒井村(現:高砂市)から京都の鉄工所で、真っ黒になって働きました。

 19才で大阪砲兵工廠へ、そして夜学にも通いました。

 やがて、大正デモクラシーの波に乗って、労働運動が激化するなかで、源次郎は、川崎造船の争議にも参加しました。

 郷里に帰って日本毛織(ニッケ)加古川工場でも組合設立運動に参加し、組合幹部として42日間のストを指導しました。ニッケの労働争議は労働者の敗北に終わり、その後、源次郎は解雇されました。

 彼はくじけませんでした。昭和2年、別府町新野辺(しのべ)に大庫鉄工所を創立しました。ちっぽけな町工場でした。



 まじめな仕事ぶりで、やがて多木肥料や野田醤油関西工場(キッコウマン醤油高砂工場)などから仕事が舞い込むようになりました。

 昭和12年、現在の加古川市野口町に工場を移転します。

 戦後、源次郎は生きるために、ナベ、カマ、パン焼き器等を製造しました。「鉄材不足していた時代で、品物は飛ぶように売れた」といいます。



 戦後、大量生産、大量販売の時代になりコンベアの生産を始めた工場は、大きく発展していくことになります。

 しばらく、大庫源次郎の波乱万丈の生涯をたどることにしましょう。

 *写真:大庫源次郎

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野口町を行く(73) 予告:『大庫源次郎物語』をはじめます

2022-08-15 13:56:50 | 加古川市歴史探訪・野口町編

     野口町を行く(7) 予告:『大庫源次郎物語』をはじめます

  「野口町をゆく」は、10(水)から少し話題をかえて、野口町に大庫輸送株式会社の創設者、大庫源次郎生涯を紹介する予定でした。

 あいにく、インターネットにトラブルがおきてしまい、UP出来なくなりました。

 

 今日、復帰しましたので、明日から『大庫源次郎物語』紹介します。

 フェイスブックのほか、「ひろかずのブログ・2」でも、お読みいただけます。

 元気をもらえますよ。お読みください。

 彼については以前に一度紹介したことがありますが、誤字・脱字等を訂正し、学生でも読める事ことを念頭に、少し書き直しての紹介です。

 よろしくお願いします。

*写真:文章とは関係がありません。きょうの自宅のタカサゴユリです。



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野口町をゆく(72) 野口の小作争議

2022-08-09 07:32:47 | 加古川市歴史探訪・野口町編

      

    野口町をゆく(7) 野口の小作争議

 1924年(大正13)の調査があります。加古郡の小作率は64.5%で、印南郡のそれは63.9%でした。

 加古川・高砂地域は、県花一番の高い小作率でした。

 大正1342日、加古川公会堂(現:加古川小学校近くの市立図書館)で日本農民組合東播連合会の創立大会が行われました。

 「・・・生存の権利を持って対抗し、団結と組織をもって土地と自由を得るまで努力する・・・」とたからかに宣言しました。

 団結した農民のエネルギーは、地主に小作料の減免を要求しました。

 大正13年、野口の鵤(加古川市野口町長砂)では、大規模な小作争議が展開されました。

 小作料の引き下げを求めました。これに対して地主は、成育中の稲を差し押さえ、小作人に、稲を刈り取らせないように対抗しました。

 小作人は、「稲の刈り取りと運搬をさせて欲しい」と要求したのですが断られました。

 ある朝、地主側が雇った人夫が稲の刈り取りをしているのを見つけ、こぜりあいとなり、突然、多数の警官があらわれ、多くの逮捕者を出しました。

 逮捕された人々は、裁判にかけられました。

 村人の要求は、ほとんど聞き入れられませんでした。

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野口町をゆく(71) 関東武士

2022-08-08 06:02:29 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

   野口町をゆく(71) 関東武士

 平清盛の支配した五箇荘は、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。

 清盛は、播磨国に大巧田(だいこうでん)を賜りました。仁安2年(1167)のことです。

 功田(こうでん)というのは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。

 なかでも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。

 しかも、無税地です。

 私たちの地は、平氏の支配する五箇荘に属していました。

 しかし、平氏は滅亡します。

 平氏の持っていた所領は全て没収されてしまいます。

 没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいます。

 この平家没官領に新しく関東から源氏系の武士が大量の流入があり、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。

 加古川城主の糟屋、高砂城(戦国時代の高砂城)主の梶原などはその代表的な例です。

    長砂構居

 長砂(加古川市野口町)に「長砂構居址」(写真)が残っています。越生有高(おごせありたか)の住居跡です。

 彼は、何時から地頭職を持ったのか、わかりません。たぶん、鎌倉時代の初期からでしょう。

 彼の出身地は、武蔵国(埼玉県)入間(いるま)郡、越生村です。

 戦国時代、加古川を支配した糟谷氏は、相模の出身であり、このように東国武士が播磨に多く進出しました。

 

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野口町をゆく(70) 富田 雅次(とみたまさじ)

2022-08-07 06:01:54 | 加古川市歴史探訪・野口町編

      野口町をゆく(70) 富田 雅次(とみたまさじ)

 加古川市野口町水足から偉大な人物が誕生しておられます。

 富田雅次(とみたまさじ)です。彼の略歴を紹介します。

 明治22年   野口村水足に生まれる。

 大正 3年   京都帝国大学(現:京都大学)医学部卒業

   〃 9年    ドイツ・アメリカ等に留学

  〃 12年   長崎医科大学教授

 昭和10年   ドイツ自然科学々士院会員

  〃 11年  胎生科学の研究

  〃 16年  台北帝国大学医学部長 

  〃 19年  山口県立医専校長

  〃 33年  日本学士院会員

 雅次は、生命とは何かを探求しつづけました。

 大学での講義中の彼の口癖は、「Morgen, Morgen, nichit Heute. (今日だけではない、また明日があるじゃないか)」で、学生をはげましました。

 彼は、戦後まもない頃、当時無医村であった野口村に、村立診療所を創設し、自ら院長として2年間勤めました。

 その後、診療所は発展的に解消して、加古川市民病院となりました。

 昭和421220日、逝去。72歳。

 *写真は富田雅次氏

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野口町をゆく(69) 平木橋(ひらきばし)

2022-08-06 07:10:05 | 加古川市歴史探訪・野口町編

      野口町をゆく(69) 平木橋(ひらきばし)

 淡河川(おうごがわ)・山田川から分水された水は、各地を潤しながら、やがて練部屋(ねりべや・神戸市西区神出町)に集められ、さらに分水され、特に印南野台地(いなみのだいち)潤しました。

 練部屋から分かれた一つの支流は稲美町の池に流れ、凱旋池(現在、埋め立てられ県立東播磨高校になっています)・万歳池(稲美町)・鳥が丘池に流れ、そして最後に平木池に到達しました。

 しかし、平木池は山田疎水の末端に位置していたため十分な水が得られませんでした。

 昭和24年頃には放置されたままになり、昭和40年頃に埋め立てられました。

 平木池に水を運んだ平木橋も、やがて人々から忘れ去られて、雑木林の中にひっそりとたたずんでいました。

 突然のことでした。

 この平木橋のある場所に、東播磨南北道路が計画され、にわかに平木橋が注目を集めるようになりました。

 平木橋には「HIRAKI AQUEDUCT BUILD SEP. 1915」、裏には『平木橋大正四年九月架之」、とありレンガの赤と御影石のコントラストが美しい橋です。

 土木工学的にも貴重であることが分かり、平木橋は専門誌にも紹介され、訪問する人も増えました。

 保存運動がたかまり、兵庫県と加古川市は、橋の移設保存工事に着手し、水足の公民館横の前ノ池(まえのいけ)に移転され保存されることになり、平成223月、工事は無事完了しました。

 *写真:現在(移転後)平木橋

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野口町をゆく(68) 「新井用水」完成

2022-08-05 10:06:51 | 加古川市歴史探訪・野口町編

        野口町をゆく(68) 「新井用水」完成

 承応3年(1645)の野口地方の旱魃です。太陽が大地を容赦なく照りつけました。

 溜池に頼るこの地方の百姓は、種籾はもちろん木の実、草の根、竹の実を食べつくし餓死する者も少なくありませんでした。

 寺田池の水も完全に干上がってしまいました。

 それに比べて、加古川の水を利用している五か井郷(現在の加古川町・尾上町)は、ほとんど被害がなく、水田は夏の太陽をいっぱいに受け、むしろよく実っていました。

 野口・平岡・播磨の村々の百姓は、五か井郷から食料と種籾を分けてもらって、やっと生活をつなぐありさまでした。

 古宮村(播磨町)の大庄屋の今里伝兵衛は、「加古川から用水を引けないものか」と考えました。

 しかし、水は、川より高い土地には流れてくれません。

 そのため、上流の城山(じょやま・神野町)のすぐ北の加古川(加古川大堰の左岸)から水を取る事を計画たてました。

 しかし、問題は、「取水する場所は、五か井用水の取水口の近くになります。当然、五か井郷の村々は了解しないであろう。そして、他の村々の協力が得られるだろうか?」ということでした。

 藩主・榊原忠次の協力を得ることができました。藩主の命令は絶対です。

 難問は、ひとつ解決しました。新井用水の工事は明暦元年(1665)正月に始まり、翌年の3月に完成しました。

 伝兵衛は新井の開通式に白装束で臨んだといいます。

 *写真:新井用水(野口町水足あたり)

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野口町をゆく(67) 正面金剛の像を刻んだ石像

2022-08-04 07:15:56 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

     野口町をゆく(67) 正面金剛の像を刻んだ石像

 庚申信仰があったことをしめす青面金剛(しょうめんこんごう)と刻んだ石塔がたくさん残されています。

 土地のお年寄りは、青面金剛を「コウシンさん・・・・」と呼んでおられます。

 加古川でも庚申信仰の跡を見つけることができます。

 しかし、江戸時代、ずいぶん盛んであった庚申信仰(こうしんしんこう)も現在では、すっかりその姿を消しました。



 庚申信仰は、平安時代に中国から日本に伝わり、一般民衆の信仰になったのは、室町時代のことで、特に、江戸時代に盛んに行われた信仰です。

 「コウシンさん」は、庚申の夜(六十日に一回)、人体に住むというサンシチュウという虫が、人の寝ている間に天に昇り、天上の神にその人の罪を告げに行くといい、そのため、庚申の夜は寝ずに、当番の家に集まり、庚申像を拝んだり、村の庚申さんにお参りに行くという行事です。

いつしか、この行事は人々が集まって、一晩中酒を酌み交わし、演芸を楽しむ行事のようににもなりました。

 庚申信仰が盛んであったことを示す青面金剛の石塔が残っていますが、「青面金剛」の文字を刻んだ石塔がほとんどで、正面金剛の像を刻んだ石像はこの地方では、ほとんど見ることはできません。

 加古川市・高砂市・明石市の範囲に限ってみても、青面金剛像(写真)を刻んだ石像は、野口町北野の稲荷神社にみられる一基だけです。

 その北野の稲荷神社ですが、分かりにくい場所にあります。北野地区を北へ抜けるとバイパスの穴門(バイパスを横切るトンネル)につきあたります。そこから道は北へ比較的広い道路・北野線が伸びています。

 その穴門をくぐって、バイパスに沿って東へ20㍍ぐらいのところに稲荷神社があります。車では見落としてしまいそうな小さな稲荷社です。歩いてお出かけください。

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野口町をゆく(66) 寸倍石(ずんばいし)

2022-08-03 05:49:18 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 前回で「シリーズ・野口と戦争」は終わりです。今回からの「野口町をゆく」の話題はまとまりはありません。

 共通点は「野口に関係している」ということだけです。

 整理をしながら読みください。



     野口町をゆく(66) 寸倍石(ずんばいし) 

 北野新田(加古川市野口町)の公民館の庭に、「寸倍石」(写真)と呼ばれている不思議な石があります。

 「ずんばいし」と読よみます。この石には、こんな話があります。

 「・・・弁慶が高御座(たまみくら)で弁当を食べていたら、飯の中に小石が混じっていた。

 ポイと投げたら鳥が岡の林の中に落ちた・・・」と云うものです。

 そのうちの一個が北野新田の公民館に置かれ、もう一個は、村人が水足の墓地に運こび、ズンバイシの台の部分を石碑の土台に利用したといいます。

 この石は、北条郷との境界を示す境界石(膀示石-ぼうじいし)であろうと言われています。

 石見完治氏も、「これをスエイシと呼び、境界点に据えられた石であろう」と考証されています。

 播磨鑑(宝暦12年-1762)に、次の説明があります。

 俗に「ずんばいし」と云う。これ北条の郷の堺也。形鞠(まり)の如し・・・

 *写真:北野新田公民館の寸倍石

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野口町をゆく(65) 野口と戦争(8) 「弾丸列車計画」

2022-08-02 07:13:23 | 加古川市歴史探訪・野口町編

 

      野口町をゆく(65) 野口と戦争(8) 「弾丸列車計画」

 戦前、壮大な計画がありました。

 東京から大阪・神戸を経て、そして朝鮮海峡を越え、朝鮮半島に鉄道をつなげようとする、とてつもない計画でした。

 まさに、軍備増強・植民地経営のための鉄道計画でした。

 昭和13年、この弾丸列車の計画は国会で承認され、そして用地の買収が始められ、昭和16年に一部建設工事がはじまりました。

 しかし、戦局の悪化のため、この弾丸列車計画は、つかの間の夢と消えたのです。

 用地買収は、東京~大阪間は96キロ、大阪以西は64キロにとどまっていました。

 加古川地域は、用地の買収が進んでいた地域でした。

 東京~大阪間はの用地は、昭和34年に着工した東海道新幹線の用地として、そのまま使用されました。

 兵庫以西の土地はいったん売却されたのですが、昭和35年、加古川バイパスの用地として再び買収され、10年後の昭和45年から国道2号線との暫定使用がはじまりました。

 加古川バイパスが、このように短期間に、しかもまっすぐな道路になったのにはこんな裏話があったのです。

 蛇足です。加古川バイパスでは、よく事故の起きています。その原因は、このまっすぐに伸びる道に原因があるのかもしれません。

 道がまっすぐであるために、スピードが出ます。そして、何より運転に緊張が少なくなのかもしれませんね。

 *「加古のながれ(市史余話)」(加古川市史編纂室)参照

 *写真:美乃利を貫く加古川バイパス予定地

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 野口町をゆく(64) 野口と戦争(7) 水足から野口への道

2022-08-01 08:31:48 | 加古川市歴史探訪・野口町編

               野口町をゆく(64) 野口と戦争(7) 水足から野口への道

 図は、大正12年地図です。

 今回の話題の道は、地元の人でなければ少し分かりにくい道のため、太く赤く塗りつぶしています。

 水足と野口とを結ぶ真っ直ぐな細い道です。

 水足は野口村の北端にあり、何かと不便でした。

 そのため、野口村の初代村長・米谷十三郎(よねたにじゅうざぶろう)の尽力で、明治時代の終わりのころ、この道は完成しました。

 しかし、現在この道は、加古川バイパスをこえて播磨化成の手前で一端途切れています。

 そして、播磨化成の北の道を越えて、米谷家(前号の歌碑のある家)まで続いています。 

 これは、昭和13年に陸軍高射砲第3連隊が、現在の播磨化成の場所に設置されたためでした。

 高射砲隊の兵舎により道は、分断されました。

 当時は、軍の方針に反対できる時代ではありません。

 以後、通学・仕事などで野口村へ行く時は、兵舎の西側を迂回することになり、ずいぶん不便になったといいます。

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