野口町をゆく(78) 大庫源次郎物語(5)
乞食しても頭(かしら)になれ
「乞食してもええが、頭(かしら)になれよ。頭に・・・」
夜、疲れ切って、せんべいぶとんに横になった源次郎に父は、よくこういいました。
貧しい百姓として一生歩んできた父は、せめてわが子には人さまの上に立つ人間になってほしかったのです。
当時の高等小学校では難解な漢文の時間がありました。
ある時、目玉のこわい教師が「鶏頭となるも牛後となる勿れ」と黒板に大書して、「のう、こらい。こりゃあ古いことわざや。大きな組織の下っ端で、ぶらぶら働いているよりも、どんなに小そうてもええ、独立独歩、一人でやって、その頭(かしら)になれちゅうことじゃ。わかったか・・・」
源次郎はこれを聞いて、身震いをしました。
「そうじゃ。先生のいう通りじゃ。おとうは、常々このことをいうとったんや。乞食しても頭になれちゅうことは、鶏頭となれと言うことじゃ」
おとうはやっぱりええことをいうとったんやなあ・・・」源次郎は、目を輝かせて黒板の字を見つめました。
「ようし、わしゃあどんなことがあっても人を使ってみせたる。どんなに辛いことがあってもやったる」
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