野口町をゆく(71) 関東武士
平清盛の支配した五箇荘は、加古川市域・高砂市域をはじめ、明石市の林崎あたりまでも含む大きな荘園であったようです。
清盛は、播磨国に大巧田(だいこうでん)を賜りました。仁安2年(1167)のことです。
功田(こうでん)というのは、律令制度の下で、国家に対して貢献した人に与えられる田地のことです。
なかでも大功田は、代々子孫に伝えることができる特別の田地でした。
しかも、無税地です。
私たちの地は、平氏の支配する五箇荘に属していました。
しかし、平氏は滅亡します。
平氏の持っていた所領は全て没収されてしまいます。
没収された平家の所領を平家没官領(もっかんりょう)と呼んでいます。
この平家没官領に新しく関東から源氏系の武士が大量の流入があり、播磨の中世(鎌倉時代)は、はじまりました。
加古川城主の糟屋、高砂城(戦国時代の高砂城)主の梶原などはその代表的な例です。
長砂構居址
長砂(加古川市野口町)に「長砂構居址」(写真)が残っています。越生有高(おごせありたか)の住居跡です。
彼は、何時から地頭職を持ったのか、わかりません。たぶん、鎌倉時代の初期からでしょう。
彼の出身地は、武蔵国(埼玉県)入間(いるま)郡、越生村です。
戦国時代、加古川を支配した糟谷氏は、相模の出身であり、このように東国武士が播磨に多く進出しました。