野口町をゆく(75)大庫源次郎物語(2) 働けど、働けど
播州平野は、まだ眠っていました。
午前4時。冬の明け方は、厳しい冷え込みでした。
薄暗いたんぼの畔道を一人の少年(源次郎)が足早やに歩いてきます。
カスリの着物に素足の草履ばきです。
しだいに、東の空が赤味を増して朝がはじめました。
高砂の町までは2キロ。ほんのひと握りほどの大根や白菜を町の人に届けて、五銭ほどの金を貰わなければ、源次郎の日課は、はじまりませんでした。
小西源次郎(のちに養子縁組、大庫と改姓)は、明治36年(1897)12月16日、父・与茂蔵、母・とめの二男として出生しました。
加古郡荒井村小松原462番地(現在の高砂市)が出生地です。
源次郎の生まれた年は、日本は明治27~28年の日清戦争も勝利に終わり、欧米列国の注目を集め始めました。
官営八幡製鉄所が設立され、ましたが、いっぽう、会社倒産が続出した暗い年でした。
小西家は、代々の小作農家で、収穫の七割余も年貢に持っていかれました。
女、子供もまじえて朝早くから夜暗くなるまで総出で働きました。
幼い源次郎には夏の草取りが一番辛い仕事でした。
田んぼの端から雑草を刈りはじめて、汗水流して草取りして夕方帰ってみると、先の所にはもううっすらと憎い雑草が生えているのです。
一反当たり二石五斗から二石八斗の米がとれましたが、そのうち地主に一石八斗は持って行かれ、残りで肥料を買ったら、ほとんど残りません。
どんなに苦しくても、肥料を買って次の年の米を作らねば生活できません。
現金がないから、肥料は、商人から借用証と引き換えに買いました。毎月30銭の利子を払わねばなりません。
支払日は、30銭がないため母・とめは、一日中家の内外を隠れまわったり、雨戸を閉めて子供たちと息をひそめて借金取りが帰るのを待ったこともしばしばでした。
小西家には、源次郎のほかに五人の子があり「貧乏人の子沢山」といわれるように親子八人が食べて行くには並大低のことではありません。
朝は、三時か四時に起きて野良仕事に出かけ、あい間には、畠を耕やして野葉をつくりました。
兄・熊太郎、姉・せんは、父といっしょに野良へ出ました。ゆき、幸次の幼い弟妹たちも近所の子守りをしたり、牛を加古川の河原に連れだし、草を刈って干草作りをしました。
夜は、身体の節々が痛くなるほど疲れている父と母は、まだ眠れません。
父は、ワラをなって草履や縄つくり、とめは六人の子のつくろい物に針を動かしました。
*写真:*写真:大庫源次郎の生家
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