野口町をゆく(64) 野口と戦争(7) 水足から野口への道
図は、大正12年地図です。
今回の話題の道は、地元の人でなければ少し分かりにくい道のため、太く赤く塗りつぶしています。
水足と野口とを結ぶ真っ直ぐな細い道です。
水足は野口村の北端にあり、何かと不便でした。
そのため、野口村の初代村長・米谷十三郎(よねたにじゅうざぶろう)の尽力で、明治時代の終わりのころ、この道は完成しました。
しかし、現在この道は、加古川バイパスをこえて播磨化成の手前で一端途切れています。
そして、播磨化成の北の道を越えて、米谷家(前号の歌碑のある家)まで続いています。
これは、昭和13年に陸軍高射砲第3連隊が、現在の播磨化成の場所に設置されたためでした。
高射砲隊の兵舎により道は、分断されました。
当時は、軍の方針に反対できる時代ではありません。
以後、通学・仕事などで野口村へ行く時は、兵舎の西側を迂回することになり、ずいぶん不便になったといいます。