日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

夏の歌

2011年06月15日 | 日記
日本の夏は高温多湿で、私辻哲郎が描いた「モンスーン型」の典型です。夏は蒸し暑いというのは、日本文化の初期条件になっており、これを「設定変更」することはできません。「家を作るときは、夏をどう過ごすかを、一番に考えるべきである」(『徒然草』)とあるように、日差しを避けるために軒を深く取り、柱で構造を作って壁は外せるようして風通しを確保し、床を高くし、といった工夫は、いわゆる日本建築の常識でした。エアコンの普及で高気密高断熱となって、快適になったようですが、災害時やその余波で電力供給に不安があるとなると、それがアダになったようでもあります。
 日本の漆器をお土産にしたアメリカ人が、自宅に持ち帰ったら、割れてしまったという話を聞いたことがあります。また音楽家の話で、ヨーロッパのバイオリニストは、夏の日本に来るときはいい楽器を持ってこない、という噂も聞いたことがあります。逆に、日本のバイオリニストがヨーロッパに行くと、楽器が乾燥して音がよく出て、演奏が一段うまくなったように錯覚する、という話も聞いたことがあります。ホールの音響の違いがあるにしても、音楽が湿度と関係するのは、間違いありません。日本に住んでみて、部屋にカビが生えてきたのを見た欧米人が、「日本の風土は、生命力に満ちている!」と驚いた、という都市伝説も聞いたことがあります。
 能の囃のうち、大鼓と小鼓は、湿度の好みが違います。大鼓は乾燥したほうが、硬く鋭い音が出るため、楽屋では皮を火鉢であぶっています。逆に、小鼓は湿って柔らかい音を出すため、お気付きでしょうか、演能中でも唾で湿らせていることがあります。
 高温多湿は、体感的にも快適とは言えません。汗が蒸発しにくく、着衣がまとわり付くからです。しかし、このじめじめした感じが、ときどき、奇妙な快感に思われることがあります。生まれたときから、慣れているからでしょうか。だいぶ前に、梅雨時のバスの中で、日本に来て間もないアメリカ人と話をしていて、「私たち日本人は、この高温多湿に、倒錯的な快感を覚えることがある」と言って、うまく通じなかったことがあります。「さまざまのこと思い出す桜かな」(芭蕉)の句のように、さまざまな思い出が、高温多湿の空間に浮かんでくるからです。
 梅雨の終わり、ときおり夏の日差しが強くなり、空気は高温多湿で、このような思い出を蘇らせる生命力に満ちています。そのような季節の、晴れ間と、夜の闇を詠んだのが、つぎの二首です。「夢に潤ふ」という文句がたいへん気に入って、「露に潤ふ」と使っていますが、斬新な(と自負します)言い回しのあとでは、陳腐な言い回しも、一味違った効果を持つようです。

夏の陽に こがるゝ草を 吹き伏せて 表も見せず 直照りの風
(夏の熱い陽射しに、水気が奪われてよじれた草が吹き伏せられて、裏を見せ、表は見えようとして見えず、熱風に吹かれている)

夏の夜の 露に潤ふ 草深く 踏みゆく跡も 絶え絶えの風
(夏の夜、丈高くなった草が露に濡れて、どこからか漏れてくる明かりに光り、人が歩いていくように、あるいは風が絶え絶えに吹いているように、揺らめいている)



 昨年の秋に詠んだ歌を、まだ発表していなかったようですので、季節外れで恐縮ですが、載せておきます。蒸し暑い中で、薄ら寒い雰囲気を想像して、ご鑑賞ください。

色淡き 花のおぼろに 群れ咲きて 白に紫の 混じりてやある
(薄色の花がぼんやりと群れ咲いているように見えるのに、次第に近付いていくと、白い花に、ところどころ紫の花が混じって、一塊に咲いて、風に揺れている)

 この歌は、近付いていく時間の経過と、対象にズームインしていく効果を、いっしょに出しています。また、自然な字余りになっています。
私はときどき、わざわざ言葉を工夫してまで、字余りにすることがあります。字余りの効果については、初心者にはわからないとされるように、説明が難しいのですが、音楽に喩えるわかりやすいいかもしれません。たとえば、作曲者の自作自演の演奏の特徴として、指定の速度よりも遅い傾向がある、とされます。これは、かみ締めるように、確認するように、楽譜に残された以外のことが、盛り込まれるからではないでしょうか。持ち歌を歌う歌手や、われわれの鼻歌が音を伸ばす傾向があるのも、これに似たものがあるのかもしれません。字数に収まるような言葉を使うと、既製品・規格品のようになって、自分が詠みたいと思う情景にそぐわないのです。



 古語短歌を詠んでいて、つくづくと思うのは、大和言葉は時を超える、ということです。万葉集以来の和歌が、見知らぬ人間の心を表わすものではなく、共感できる親しい友人、知人の心の声に聞こえます。和歌は、境涯の順逆も超えています。幸福の絶頂にあって、驚くべき美しい世界が形を取ることがあり、また不幸悲嘆の極みにあって、万人の魂を揺さぶる絶唱が生まれます。王侯貴族から無名の庶民まで、老若男女を超え、貴賎貧富を超え、隔てる境のない「大人の愉しみ」というべきは、日本において、和歌に勝るものないでしょう。絵画、彫刻、骨董、さらには庭、建築などは、費用がかかりますが、文芸には紙と鉛筆があればよく、その広がりはすべてを超えて、いわば無限です。限界がないという意味で、文芸の境地は信仰、宗教につながっています。



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