日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

『古語短歌物語 花の風 [読み仮名・現代語訳付]』第四巻(前半)

2010年10月18日 | 日記
四の巻、別れ

 淡い粉雪が降っていた。

いもまてば ちりおくれたる はるのゆき まようこころを しりてふるらん
妹待てば 散り遅れたる 春の雪 迷ふ心を 知りて降るらむ

(あなたが来てくれるのを待っていると、季節はずれの春の雪が、私の心の迷いを知っているかのように、迷いながら降っています)

いもこいて わがまちおれば はるのゆきや ちりおしみつつ やみがてにふる
妹恋ひて 我が待ちをれば 春の雪や 散り惜しみつゝ 止みがてに降る

(あなたが来るのではないかと、恋しく待ちわびながら過ごしていると、春の雪は降りきってしまうのが惜しいかのように、降っては止み、降っては止みして、いつまでも降り止みません)

うめさきて さくらまちいる あおぞらに こしかたみえぬ ゆきまいちろう
梅咲きて 桜待ちゐる 青空に 来し方見えぬ 雪舞ひ散らふ
(あなたを恋しく思っていると、梅が咲いて、桜が待たれるこの季節、青空から春の雪が、こぼれるように降ってきました)

あわゆきの けぬべきものを いままでに ながらえぬるわ いもにあわんとぞ
沫雪の 消ぬべきものを 今までに ながらへぬるは 妹に会はむとぞ
(あわ雪はすぐに溶けて消えてしまうものなのに、そして私もいつ死んでもおかしくないのに、こうして生きてきたのは、あなたに会うためだったにちがいありません)


 桜の季節、女が去っていく日は、もう間もなくだった。建物の前の木陰に、女は誰かを待っているのか、しばらく立っていた。汗ばむほど暖かい中を、涼しい風が吹いていた。

かぜたちて このはさやげる したかげに いもたたずみて なにおもうらん
風立ちて 木の葉さやげる 下陰に 妹佇みて 何思ふらむ

(風が起こって、木の葉がざわめきます。その下に佇むあなたは、何の物思いにふけっているのですか)

 女は迎えに来た車に乗って、門から出ていった。車の音が遠ざかると、木立ちを吹きすぎる風の音が膨らんで、建物に囲まれた庭に充満した。

このにわに ふきゆくかぜも さくはなも さちにみてるわ いもありてこそ
この庭に 吹きゆく風も 咲く花も 幸に満てるは 妹ありてこそ

(庭を吹く風も、庭に咲く花も、このように幸せに満ちているのは、あなたがいらっしゃるからです)

帰り道、男はいつもより遠回りをして帰った。女の面影が、遠くの山並みに重なったり、道路沿いの家並みに重なったりした。

みねみつつ いもがかよいし さかみちの あとをしのびて ひとひあゆめり
峰見つゝ 妹が通ひし 坂道の 跡を偲びて 一日歩めり

(あなたが通った、向こうに山のみえる長い坂道を、今日あなたのことを思い出しながら、歩きました)

 女が去っていく前日は、取り返しのつかない思いがいつになく募って、男は落ち着かなかった。
 ベランダから平地をはさんで見る向かいの山は、深緑のところどころに薄色の花が群れ咲いて、脱色したようになっていた。

たかどのに まむこうおかの にきはだの みどりにはなや さきてまぎるる
高殿に 真向かふ丘の 和膚の 緑に花や 咲きて紛るゝ

(高台の高い建物から、あなたを生んだこの土地の丘を見渡すと、木々の緑のそこかしこに赤や白がうっすらと混ざっているのは、何の花が咲いているのでしょうか)

 女は仕事の片付けや挨拶で、忙しそうに動いていた。庭の噴水の前の円形の階段で、男は女と行き会った。男と女は会釈をしただけで、立ち止まりもしなかった。

いざやいも みてをこなたに たまえかし かのきざはしに なみていこわん
いざや妹 御手を此方に たまへかし かの階に 並みて憩はむ

(どうぞ、こちらに手を差し出してください。あの階段に、私とあなたと並んで休みませんか)

いつのよか なみていこわん わがいもわ いまはいずくと いでたたすらん
いつの世か 並みて憩はむ 我が妹は 今は何処と 出で立たすらむ

(いつの世にか、二人並んで休むことでしょうが、あなたは今、どこへ旅立って行こうとするのですか)

 すれ違った女のあとから、薄い化粧の匂いを含んだ風が、染み透るように吹き寄せてきた。

いもがてに いもがうなじに くろかみに はるめくきょうの かぜふきすぎて
妹が手に 妹が項に 黒髪に 春めく今日の 風吹き過ぎて
(あなたの手や、うなじや、黒髪を、今日になって春めいてきた風が吹いて、さわやかに通り過ぎていきます)

そなたより ふきくるかぜぞ なつかしき いもがたもとに ふれやしぬらん
そなたより 吹きくる風ぞ 懐かしき 妹がたもとに 触れやしぬらん
(そちらから吹いてくる風が、こんなになつかしいのは、あなたの袖に触れたからでしょうか)


 日向の匂いと日陰の匂い、花の匂いと草の匂い、水の匂いと土の匂いが、生命の華やぎとなって、あたりに満ちていた。

このはるも さくらはなさき わかばふき いもがゆくえを さきおうごとく
この春も 桜花咲き 若葉吹き 妹が行く方を 幸ふ如く

(いつものようにこの春も、桜が花咲き、若葉が芽吹いていますが、それもこれも、あなたの行く先を祝福するかのようです)

暖かく晴れた春のある日、女は去って行った。女の暇乞いの挨拶は、ことのほか丁寧なものだった。置いていった小さな贈り物の中に、短い言葉が書かれていた。男は机の上を片付けてから、女に別れの便りを書いた。

「新たな出で立ちに、幸いを祈ります。
 あなたが帰ったあとの、いつもどおり閑散とした部屋で書いていますが、いつにない虚脱感と、安堵感が交錯します。長い一年でした。
 あらかじめ送るご許可を頂いていた歌を、送らせて頂きます。餞別というよりは、私の片恋歌になっていて、迷惑かもしれませんが、あなたのおかげで、これまで入れなかった世界に踏み込んで、どうにか詠むことのできた歌です。
いつ詠んだものか、わかるものがありますか? 
万一胸に響くものがあったら返歌をください。捧げ歌に値する人と相聞が詠めれば幸せなのですが。死を前に、平家の公達が和歌を後世に託した思いが、私にもわかるような気がします。……」

女からの返事は来ないまま、日々が過ぎた。

数ヶ月後、思いが薄れたころになって、女からの便りで、用事の序に立ち寄りたいという知らせがあった。男は胸が騒いだ。
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