日守麟伍の和歌(うた)日記 Ringo Himori's Diary of Japanese Poetry

大和言葉の言霊の響きを求めて Quest for the sonancy of Japanese word

古典(『玉葉集』)と現代(『花の風』)の対話

2010年08月16日 | 日記
猛暑が戻ってきました。皆様いかがお過ごしですか。

『玉葉集』には、「近代的」といわれる情景が多いので、はたしてどれくらい近代的なのか、現代の古語短歌と比べてみましょう。

春の歌の下巻に、つぎのような歌があります(前参議清雅)。注目している情景の面白さに比べて、歌の調べ、響きがあまりに単調で、密度が薄くなっています。

長閑なる 入相の鐘は ひびきくれ 音せぬ風に 花ぞちりくる
(のどかな響きの鐘が、夕暮れに消えてゆき、静まり返った中に、音のない風が、花を散らせている)


これと同じような、寺院の風景と花が風に散る情景を歌ったものを、私の『花の風』から引いてみましょう(歌集の名は、この歌の一節からとっています)。

立ち並める 岩屋に注ぐ 花の風 夢の名残を 弔ふごとく(3巻・15)
(死者の見果てぬ夢を、まるで貴方が静かになぐさめるかのように、音もない風が花びらを散らして、立ち並んだ墓石に注いでいます)

無音の風に花が散る情景を詠んだ二つの歌でも、調べによって、このように歌空間の密度が異なります。


* * *

もうひとつ、こちらは為兼の歌(夏の歌の巻)と、私の歌を並べてみましょう。どちらも、明け方の情景を詠んだものです。

為兼は朝日の届かない竹藪の奥を接写しています。

枝にもる 朝日の影の すくなさに 涼しさふかき 竹のおくかな
(わずかな朝日が枝にこぼれて、その少ない光は、竹藪の奥深くまで届かず、向うは小暗く涼しく見える)


私の歌は、木立をはさんで漏れてくる朝日が、人間の皮膚にゆらめくところを接写したものです。まったくの自然観照ではありませんが、人間をオブジェのように配しており、焦点は人間ではなく、光と影にあります。為兼が「涼しさ」という感覚に言及して、かえって人間的な歌になっているのに対して、私の歌は人間の感覚はいっさい排除して、かえって人気(ひとけ)のない調べになっていると思います。

地に沿ひて 木立を漏るる 朝の陽の 白き肌に 浮きてかげろふ(6巻・10)
(昇りかけた朝日が地面に平行に差し込み、木立を漏れてきて、白い肌の上に、陽炎のようにゆらゆらと浮いて見える)

次回も今回の続きで、同じようなモチーフが、どのような形と調べをとっているか、『玉葉集』と『花の風』を対比してみましょう。

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