『竜馬がゆく』は現在、やっと第2巻まで読みました。
このペースでいくと、月に2冊は読めるということです。あと6巻を読み終えるのは、10月ということになりそうです。
近頃、これほど集中的に読書をしたことはありません。
『竜馬がゆく』はあくまで小説であって、どこまで、史実に忠実なのか分かりません。
『竜馬が行く』を読んでいて、ふと疑問に思ったことは、薩長同盟を締結させ、そして、最期は、1867年の11月15日に同時に暗殺された盟友の慎太郎と龍馬は深い縁があったはずで、いつどこで、初めて出会ったのだろうかということです。
龍馬・慎太郎の年表を見ても、龍馬と慎太郎が初めて出会った年と場所は書かれてなくて、年表から見ると、薩長同盟が締結された1866年の前年の1865の5月に、西郷隆盛と桂小五郎の会談の画策が流れた時には、間違いなく、慎太郎は、下関で龍馬に会っています。
常識的に考えて、薩長同盟の前年に初めて、龍馬と慎太郎が会ったとは考えられません。
では、実際のところはどうなのでしょうか。
そのことを知るための情報がネット上でないものかと検索したのですが、情報を入手することはできませんでした。
龍馬と慎太郎の初めての出会いということは、歴史的には、あまり重要な意味がないことかも知れないのですが、2人の縁の深さを考えると、どうしても知りたくなりました。
そこで、龍馬に関しては、膨大な情報量を持っている『県立坂本龍馬記念館』にメールで問い合わせました。(以前も薩長同盟の締結の場所に関して問い合わせたことがあります。)
そうすると、即日にメールで返事がきました。
さすがに、龍馬記念館です。龍馬に関することはきちんと答えてくれます。
常識的に考えると、『土佐勤王党』に、龍馬、慎太郎が参加した頃には、2人は初めて出会っているはずだというのが、龍馬記念館からの回答です。
慎太郎24才、龍馬27才の時です。
それ以外の可能性としては、二つあるという回答でした。
まず、龍馬の一番上の姉千鶴の夫、高松順蔵を通じた出会いです。
順蔵は土佐藩東部の安田村(現安田町)に住んでいました。
龍馬は順蔵の家を頻繁に訪れており、土佐藩を出てからの手紙にもよく「順蔵さん」の名前が登場しているということです。
東部の若者の多くは、順蔵を慕い教えを受けていたので、慎太郎が訪ねた可能性は大いにあります。
もう一人、慎太郎の先生である間崎滄浪(間崎哲馬)を通じた出会いも考えられるということです。
慎太郎は15歳の時に、田野(現在の田野町)へ来ていた間崎に師事していました。
龍馬がいつ間崎と出会ったかが分からないのですが、もし早くから知っていたとすれば、可能性はあるかも知れないということです。
龍馬は出会いの達人だったわけですが、人と人の出会いは、偶然ではなくて、必然であって、何かの縁があって出会っているのだとも考えられます。
人生の最期を共にした龍馬と慎太郎は深い縁で繋がっていていたはずです。
人と人の出会いは、その後の人生にいい結果ばかりをもたらすわけではないのですが、良くても、悪くても、人と人の出会いは、縁によって結ばれていると考えていいのではないかと思います。
人気ブログランキングに参加しています。このブログを気に入ったらクリック御願いします。