はんどろやノート

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SF編集長キャンベルX

2008年12月25日 | はなし
 映画『遊星からの物体X』(1982年)をレンタルしてきました。
 この映画を僕は映画館で観ました(30年ちかく前になるんですね…)が、封切当時はたいして期待もされていなかったと思うが(同じ年に制作された『E.T.』に比べれば屁のようなもの)、まあそれで、僕もそれほど期待はして行かなかったけれども、案外面白かったな、というのが印象だった。その後、この映画はけっこう評判が良かったようだ。(もちろん『E.T.』ほどではないが。)
 この映画、原作はジョン・W・キャンベル・ジュニアなのである。そう、アメリカSF雑誌<アスタウンディング・サイエンスフィクション>の名編集長であり、アシモフやヴァン・ヴォークトやハインラインを育てた男である。じつはそのこと(この映画が彼の原作であること)に僕が気づいたのは、(迂闊にも)つい最近なのであるが。
 キャンベルが<アスタウンディング>の編集長になるのは、1937年、彼が27歳の時であるが、それまで、キャンベルはSF小説を書いていたのだ。映画『遊星からの物体Ⅹ』の原作は、『Who Goes There?』という題名の小説で、日本では『影が行く』となっている。
 南極に、謎の生命体が、初めは犬(シベリアンハスキー)に寄生して、やがて人間に接近して、猛威をふるう…というストーリーである。この生命体というのは、10万年前に地球にやってきて氷づけになって眠っていた宇宙の生命体なのであった!


 さて、僕は今日、河合隼雄著『猫だましい』の中の「鍋島猫騒動」の解説をおもしろく読んだ。この話は「講談」の有名な化け猫騒動の話である。ある人間の恨みを「化け猫」が代りにはらそうとして大暴れする話だが、この猫は、人間(なぜか女ばかり)の心身を乗っ取ることができる。
 それで、いま思ったのだが、この化け猫、遊星からの物体Xだったのではないか?  …まあ、それは、余談。


 SF作家としてのキャンベルは、1930年代に活躍している。1932年『ガニメデの漂着者』という作品がある。宇宙船がガニメデに漂着してしまう。ガニメデには、犬ほどの大きさのバッタが棲んでいて、これを焼いて食うとステーキのような味でなかなかいける…というような内容らしい。
 『遊星からの物体X』の原作『影が行く』が<アスタウンディング>に載ったのは、1938年8月号である。すでにキャンベル自身が編集長だった。
 この『影が行く』を読んで刺激を受けて、SF小説を書いてみよう思ったのが、A・E・ヴァン・ヴォークトである。ヴォークトは書き上げた作品を、キャンベルのもとに持っていったが、この作品はボツ、書き直しを命じられた。しかし、ヴォークトが次に書いた作品は、キャンベルの満足するところとなり、翌年の<アスタウンディング>紙7月号の表紙を飾った。この作品は、熱狂的なSFファンの拍手喝采を浴びることとなった。「無名の新人」ヴァン・ヴォークトは、一気にトップの人気作家となった。この作品こそ、後に『宇宙船ビーグル号』の第一話となる、『黒い破壊者』である。


 10代後半のアイザック・アシモフは、<アスタウンディング>に一読者として投書を送っていた。そこに自分の書いた文章と名前が載るのを見て、天にも昇る気持ちだった。 作家としてのキャンベルも、アシモフのお気に入りだった。
 17歳の夏からアシモフが書き始めたSF小説があった。題名は『宇宙のコルク抜き』というものだった。途中まで書きかけのまま、机の中にあった。アシモフはこれを1年後の1938年6月に完成した。これが彼の書いたはじめての小説だった。
 さて、出来上がった小説をどうしたらよいのだろう? 18歳で世間知らずのアシモフは父に相談した。父はまずその原稿を見せろといったが、それは拒否した。父は、では地下鉄で出版社に行って、直接編集長(キャンベル)に手渡せと言った。アシモフはビビッた。ビビッたが、意を決して、父の言う通りにした。受付の女性に面会を申し入れると彼女は電話をした。そして、「キャンベルさんがお会いになるそうです」。 アシモフは仰天した。ほ、ほんとうに会ってくれるのか! 
 アシモフ18歳。キャンベル28歳。その時、二人はSFについて1時間以上話をしたという。キャンベルは非常な話好きだったのである。アシモフの処女作『宇宙のコルク抜き』は預かることになったが、これは結局ボツとなった。ボツにはなったが、キャンベルと1時間も話ができたという喜びは大きく、アシモフは次の作品への意欲を燃やすこととなった。
 次の作品の題は『密航者』。 これもボツ。 ボツになったが、キャンベルに会って家に帰るまでの間に、アシモフは次の作品のストーリーを組み立てていた。キャンベルは不思議な男だった、とアシモフはふりかえっていう。彼に作品をボツにされても苦にならないのだ。それどころか、彼に会うと、もっと書こうと情熱が湧いてくるのである。
 アシモフの第3作目『真空漂流』もキャンベルはボツにしたが、これは別の雑誌<アメージング・ストーリーズ>に売れた。初めての原稿料をアシモフは受け取ったのだった。

 このように何度も書いてはボツとなり、アシモフの作品がはじめてキャンベルに採用されたのは、『アド・アストラ』という題の作品である。なんとアシモフの10作目になる。この小説をアシモフはいつ活字となって掲載されるのかと待った。それが掲載されたのは1939年7月号で、キャンベルはこの作品のタイトルを『趨勢』(『Trends』)と変えて載せていた。そしてこの号は、あのヴァン・ヴォークトの『黒い破壊者』が(新人にもかかわらず)巻頭を飾っていた号なのである。
 この次の号、8月号には、ロバート・A・ハインライン『生命線』が載った。さらに9月号では新人シオドア・スタージョンがデビュー。
 J・W・キャンベルの育てたこれら「未来の巨匠SF作家たち」が、生き生きと巣立っていく時代であった。アメリカSF黄金時代の始まりを予感させるものであった。


 1939年7月2日には、“第1回世界SF大会”がニューヨークにて開催された。
 この時、手塚治虫はまだ10歳、小松左京は8歳である。SF雑誌などもちろんまだ日本には存在していない…。(てゆうか、中国と戦争中。)



 アシモフには、<陽電子(ポジトロン)ロボットシリーズ>という作品群がある。その第1作となる『ロビイ』は、1939年に書かれているが、これもキャンベルはボツとした。他に似ている作品が前例としてあったためだ。とはいえ、この『ロビイ』はたいへんに愛らしい作品で、僕は大好きだが、おそらくはアシモフもお気に入りのものだったと思われる。
 さて、アシモフが『ガニメデのクリスマス』を書いてそれをキャンベルに見せたのは、1940年12月23日。前に書いた通り、これもキャンベルの満足は得られなかった。(他の雑誌で採用された。) 
 しかしこの12月23日、アシモフにとって、もっと重要な出来事が起こった。アシモフが自分のロボットものについてのアイデアを話していたとき、キャンベルはおおいに興味を示し、考え、やがてこう言った。
 「いいかね、アシモフ、この話を組み立てていく場合に、ロボットが従うべき三つの原則があることを頭に入れておく必要があるぞ。第1に、ロボットは人間にいかなる危害も加えられない。第2に、ロボットは… 」

 有名な、アシモフの、ロボット工学三原則、その誕生の瞬間である。

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