はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

夏目漱石の顔

2008年01月14日 | ほん
 夏目漱石氏は、以前1000円札の顔でした。お札の漱石の顔のところを山折り谷折りにして下から眺めると「ニヤケ顔の漱石」になりますが、僕は夏目漱石といえばあのニヤケ顔を連想してしまいます。
 漱石っていろんなところで銅像になってるんですねえ。銅像にされる気分ってどんなかしら? 肖像権のしんがいだーって怒っているんじゃない? あの世で。
 アインシュタイン博士の、あの有名なアッカンベーの写真は、第二次世界大戦後に、ある記者の「博士、誕生日のこの日に、なにかひと言お願いします」という要望に応えたもの。あの写真は、ア博士もたいそう気に入っていたようです。

 僕はもともと1年に読む本の量は20冊くらいで、1年のうち50日くらいの間読んでいる。だからあとの300日以上は本を読まない日__そういう人間であった。ところがこの半年間(正確には8ヶ月)、毎日本を読んでいる。本を読むことは、「非日常世界」を旅することで、かなり疲れる。しかしおもしろいので、なかなかやめられない。(そろそろ着地できそうな気がしているが。)
 この読書の長い旅は小川未明作いわさきちひろ画『赤い蝋燭と人魚』、それから角田光代『あしたはうんと遠くに行こう』からはじまった。『あしたは…』は全然読んでいないのだけど、今思えばこの本のタイトルが、僕の読書の旅を暗示している。
 最近読んだ本は『ユダヤ人の歴史』(ポール・ジョンソン著)。2ヶ月前から少しずつくりかえし読んでいるが、ユダヤ教とキリスト教の成立の歴史が面白い。これを読み始めたきっかけは、アインシュタインがユダヤ人だからだ。ユダヤ人の歴史は4千年前から始まっており、それが文書に記録されているというからクラクラする。その記録はヘブライ語で書かれているが、このヘブライ文字も、ギリシャ文字も、アラム文字も、もとはエジプト文字なのだそうだ。つまり西洋の文字文明のルーツがそこにあるのだ。「本」という海を遠く遠くへ航海していたら、古代エジプトにまで行き着いた。そして…
 では、「文字」のむこうにはなにがあるのか。「文字」のない世界…

 話を変えよう。
 ラフカディオ・ハーンは1890年にやってきて、島根県松江に住んだ。そこで小泉セツと結婚するのだが、僕らの印象ではこの松江にずっと長くくらしていたように感じているが、事実はそうでなく(実際は2年)、その後就職の関係で、熊本、神戸と移り住む。だが、熊本や神戸はどうもハーンにとって水が合わなかったようだ。東京もハーンは気がすすまなかったが妻のセツが東京へ住みたいと望むので、帝国大学(東大)の講師の依頼を受ける。ハーンが「怪談」のシリーズを書いたのはこの東京時代の7年間である。14年日本に住みながらもハーンは日本語が読めなかった。妻セツが古本屋などから探してきた本を、子どもに寝物語をするようにハーンに読み聞かせた。それをハーンがあとで英語に書いたわけである。
 1903年、7年勤めた帝国大を解雇される。これはハーンにとってショックだった。またハーンを愛していた学生達にとっても同じで、これに対する反対運動が起こる。だが決定は覆らなかった。ハーンが解雇されたのは「次の予定」が決まっていたからである。夏目漱石がイギリス留学から戻って来てハーンの後に英文学を教えた。そういう環境だったので、漱石もずいぶんやりにくかったようだ。
 ハーンが帝国大を解雇されたと聞き、早稲田大学の学生達が騒ぎ始めた。早稲田にハーンを呼んでくれ、というのである。こうしてハーンは早稲田の講師になった。その生徒の中に小川未明がいた。小川未明の卒業論文テーマはラフカディオ・ハーンである。
 しかし早稲田大の講師となったその年1904年にハーンは亡くなった。 墓地は雑司が谷(池袋の近く)で、ここにはたくさんの有名人がねむっており、夏目漱石の墓もここにある。

 夏目漱石は大学で講師をしながら、やがて小説を書きはじめる。その後、朝日新聞社に入社し、本格的に小説を書く。
 晩年、岡本一平と交流があったことはすでに述べた。それは1914年頃からのことである。一平の、解説文を付けた新スタイルの漫画は「漫画漫文」とよばれ、人気となった。漱石もこの漫画のファンだったようで「鋭くて風刺的だが苦々しいところが無い。そして残酷さがない」と誉めていた。
 漱石は1918年に亡くなった。(ついでながら、この年にはいわさきちひろ、升田幸三が誕生している。)
   ←一平画
 岡本一平は朝日新聞に入社して漫画を描くようになり、収入は安定した。収入は安定しても、生活は安定しなかった。一平の「放蕩」が始まったからである。稼いだお金をすべて遊蕩につかってしまう。
 一平の文学への憧れが一平を「放蕩」へと走らせたのであろうか。ほとんど家庭を顧みず、妻かの子は精神を崩していった。また、芸術家の大好きなかの子にとってみれば、一平が売れたといっても、画家としてではなく漫画家というのが気にいらなかったということもあるようだ。そういう中で、かの子の親愛なる兄・雪之介が世を去った。岡本かの子はこの時代を、暗黒の時代とのちに呼んでいる。
 「遊蕩文学論争」というのがあったそうである。当時の「遊蕩」は売れっ子小説家の間でのブームであったようだ。当時は日本流の自然主義が文学の主流になっており、その考えの根底に、「経験していないことを書くのはリアリズムじゃない」というのがあったようだ。しかしそれなら、一日中机の前で小説を書いていても、なにも面白いことは起らない。書くことがない。そういうわけで、酒を飲み、女と遊び、後悔して、自分の内面の黒々としたものをリアルにみつめる…というのが流行文学だったのだろう、と僕なりに解釈している。
 当時、「遊蕩文学でないのは、夏目漱石と小川未明だけ」と言われたそうである。夏目漱石の小説は、自然主義が流行る以前の主流だったロマン主義にちかいといわれている。

 小川未明は、20代から多くの小説を書いた。そのうち、未明は、童話創作を主な仕事としていく。
 未明が1921年2月に発表したのが『赤い蝋燭と人魚』。この作品はのちに未明の代表作となるのだが、掲載紙は朝日新聞である。(そしてここが重要なポイントなのだが)その挿絵を描いたのが岡本一平なのである! (ソースはこちら) つまりちひろの前に、一平がこの童話の絵を描いていたわけだ。
 僕がこのブログで岡本一平のことを書いているのは、実はアインシュタインがきっかけだった。アインシュタインの訪日について去年の8月に調べていたら、岡本一平とアインシュタインが話をしているらしいとわかったのだ。それで一平のことを調べたくなったのだった。(内容についてはまたいつか)
 その岡本一平が、いわさきちひろがまだ2歳の時に、朝日新聞で『赤い蝋燭と人魚』の絵を描いていた、そしてその1年後にア博士は日本にやってくるのである。ちひろが亡くなるのは55歳の時であるが、すでに書いたとおり、その最後の仕事が絵本『赤い蝋燭と人魚』(未完)だった。

 1922年11月、神戸港に到着したアインシュタイン博士は、日本に来た理由を聞かれこう言った。「理由は二つあります。まず一つ目は、ハーンの描いた日本をこの目で観たかった。二つ目は、科学を通じて日本との交流を深めるためです」
 真っ先に、博士は、ハーンのことを言っているのです。

 ところで、4日前の記事「哲学はエロいのだ(たぶん)」で書いた中の小説家野上弥生子さんは、夏目漱石門下なのでした。僕は野上弥生子って全然知らなかったけど、図書館の検索機では190点もの検索数がありました。野上弥生子『ギリシャ・ローマ神話』ってのが棚にあったけどこれは彼女が20代に出したもので漱石先生の監修らしい。『秀吉と利休』…あ、これはタイトルだけは知っていた。野上弥生子は、骨太の小説を書く人のようで、できれば読んでみたいとおもいます。

 が、本音を言えば、そろそろ「本の海」の航海は終わりにしたい。でも、どうなるか… 風に聞いてくれってかんじ~。
コメント
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