はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

梨の月

2008年01月15日 | ほん
 『田辺元・野上弥生子 往復書簡』という本を見つけた。
 哲学者田辺元(たなべはじめ)と小説家野上弥生子(のがみやえこ)が恋愛をしていたらしい、という証拠の本である。二人ともに70歳の頃のことである。
 初めはお互いに夫婦同士のつきあいであった。それが、弥生子の夫野上豊一郎が1950年に他界し、その翌年に田辺の妻が亡くなった。もともと弥生子は田辺の妻と親しかった。その夫の元のことは、気難しい人という印象であった。ところが、独り身になった田辺元の心配をしているうちに、この男の内面に、魅力的な何かを弥生子は見つけ出したようなのである。
 

 1953年10月の弥生子の元への手紙。
 田辺元が野上弥生子に梨を送ったらしい。弥生子はそのお礼を手紙で述べたあとに、先生こそ梨をたくさんめしあがって栄養をとってほしいと書きそのあとにこう続けている。

 〔昨夜ひとりストーヴのまへに椅子をよせ、薪の燃ゆる音に耳傾けながら、赤い木彫りの鉢にもった梨をじっと眺めてをりました。そのうちに見てゐるのは私ではなく、梨から却ってぢつと眺められてゐる気がして参りました。そのうへ梨はその時私が考えてゐたことを、なにもかも見抜いてゐる感じがいたしました。果物のくせに少し生意気におもはれました。私は一つをとりあげ、窓から空にむかって投げて見ようか、さうしたらこのころ夜ごとにまるくなってゐるお月さまの外に、もう一つ青白い美しい月が出来るかも知れない、とふとそんな幻想に捉はれました。〕

 「果物のくせに」というところが面白い。ほんとうは「○○のくせに!」と元にむかって言いたかったのだろうか。
 そして同じ年の11月の手紙。その弥生子から元への手紙には長い文章の後に数編の詩が添えられていた。次の詩がその一つ。

   あたらしい星図
  あなたをなにと呼びませう
  師よ
  友よ
  親しい人よ。
  いっそ一度に呼びませう
  わたしの
  あたらしい
  三つの星と。
  みんなあなたのかづけものです
  救いと
  花と
  幸福の胸の星図

 これに応じて田辺元が弥生子に送った11月17日の手紙には、野上弥生子の師でもある夏目漱石の小説に関しての批評が書かれている。どうやらこの手紙の前に二人は会って話をしているらしく、そのときに言い足りなかったことをどうしても弥生子に理解してもらいたいようで、その熱情が手紙に表れている。要約すると、次のような内容である。
 漱石の初期の小説『坊ちゃん』『草枕』はまだ芸術とはいえない、『虞美人草』(漱石が本格的に小説を書き始めた最初の作品)もまだ不十分である。『虞美人草』の登場人物は、小説のための「将棋の駒」のようであり、活きた人間の血が感じられない。『三四郎』『それから』までその傾向は脱却できておらず、『門』『心』に至って漱石は立派な作家になった、というのである。そういう漱石の作品を例にとりながら、田辺元は、野上弥生子の小説の登場人物を批評して「まだ、活きた人間の血が通ってない」というのである。小説家としての才能があるあなただからこそ、そこに気付いて欲しいというのだ。
 この熱情は、老人のものではない。70歳をむかえて、まだ、手を伸ばして天を掴まんとしている。
 そのように率直に批評したあと、手紙に、田辺元は5篇の短歌を付け加える。そのうちの一つ目がこれ。

 君に依りて慰めらるるわが心 君去りまさばいかにせんとする

 あなたがいないとこまる、と老哲学者は言っている。
 なるほど。これは、恋であろう。
 文字の世界の深遠にいる二人の恋である。その深さについては田辺元のほうが上手だっただろうが、そこに弥生子はついて行こうとしている。野上弥生子の三男茂吉朗は物理学者だったので、その息子に最新の素粒子学について聞いたと報告していたりする。また、弥生子「ソクラテスが現代に生きていたらどんな行動をするだろう」などと手紙に書いているが、その返信で田辺元は、「哲学者としてソクラテスは至上の人でありますが、… 弱小の小生自身にとりあまり高邁に過ぎて、御恥づかしきことながら、彼を学び彼に似ることができませぬ。」と述べている。僕にはここがとても興味深かった。田辺は、プラトンには心惹かれるが、ソクラテスには近づけない、と言っているのである。
 ソクラテスは、本を書く人ではなかった。つまりソクラテスは「文字の世界に遊んだ人」ではなかったということである。そのソクラテスの存在に深い「知恵」を感じたプラトンは「学問」によってソクラテスに近づこうとした。プラトンは沢山の著作を残した。勉強のすきな人間だったのだ。この、プラトンとソクラテスの間に、「文字の学問をする人」と「文字の向こう側の世界を見ている人」の境界があると思う。(と、カンで言ってみた。僕はプラトンを全く読んでいないのだ。)
 田辺元も、やはり「文字の世界に魅入られた人」だったのだなあ、と思う。

 もう一つ、僕の興味をひいたのは手紙の中の次の野上弥生子の文章(1954年12月)。

 〔お正月と申せば四日の夫人の時間に放送するための所謂対談なるものを、中村屋のおかみさんのお良さん黒光女史といたしました。何十年ぶりかに逢ひましたので、明治女学校のむかし話が沢山でまして、ラヂオには出ない部分の方がいっそ面白いのでございます。お良さんは八十に来年なります由で…〕

 「中村屋のおかみのお良さん」…相馬黒光(そうま こっこう)のことである。新宿中村屋のことは去年このブログでも書いている。(8月11日「新宿中村屋のクリームパン」9月2日「恋と革命の味」) インドの革命家ボースを匿った話などである。黒光は、良(りょう)というのが本名だが、女学校時代、「溢れる才気を少し黒で隠しなさい」ということから「黒光」というペンネームを恩師からいただいて使っていた。芸術のすきな人だったようで、僕が新宿中村屋の相馬黒光を知ったのは、去年の6月、安野光雅の画集『安曇野』を図書館から借りてきたとき。この画集のなかで安野氏は、臼井吉見著『安曇野』のことを書いていて、その主人公が、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵・黒光夫妻なのだった。
 中村屋の黒光も野上弥生子も、明治女学校出身なのである。歳が離れているので同時には在籍していないが。
 ついでに書いとくと、僕が正月に買った夏目漱石『草枕』の文庫本(新潮)の表紙絵は、安野光雅氏が描いたものである。


 元と弥生子__二人の付き合いは田辺元が亡くなる1962年まで続いた。野上弥生子は99歳、1985年まで生きた。そこから約10年ほどして、二人の周辺からそれぞれが持っていた手紙が別々に発見され、21世紀になってこの本で一つにまとまったというわけである。(時空を超えた恋、ですなあ。)


 だらだらと書きました。(書きすぎじゃ!)
 しばし、ブログ、休みます。 ではでは。
コメント
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