「伯林」と書いて「ベルリン」と読む。(知ってました? 僕ははじめて知って、なんだか使ってみたかった)
改造社同人秋田忠義は1922年3月、香取丸で日本を出発し、ドイツへむかった。アインシュタインとの訪日計画はすでにほぼ合意に達していた。ドイツ在住の哲学者田辺元の協力を仰ぎ、その最終交渉へ当たった。
アイシュタイン博士は大乗り気であった。博士の心はすでに日本への旅にあった。
だが残された問題があった。アインシュタインの妻エルザ夫人の合意を得ることだった。しかし、エルザ夫人の心はなかなか決まらない…。
アインシュタインは二度結婚している。
一度目の相手は、ミレーバという名の同じ大学で物理学を学んでいた女性で、1903年に結婚したが、その前に生まれた長女は養子に出している。その後、二人の男の子を得る。しかし、家庭はうまくいっていなかった。アインシュタインという人は、親しみやすい人柄だったが、よその子供とはうまく遊べても、自分の家の子供との付き合い方がわからない、というようなタイプの人だったのではないだろうか。科学に没頭するだけのアインシュタインに、ミレーバの不満が蓄積して行ったようである。アインシュタインがスイス・チューリヒからドイツ・ベルリンへと移った時、ミレーバと子供達は一緒に行かず、別居となった。
1916年にアインシュタインは、一般相対性理論を完成。
その後、アインシュタインは体重が25キロも減るという大病になるが、その時に看病してくれた女性がエルザであった。エルザはアインシュタインの母方の従姉で3歳年上、彼女もまた離婚したばかりだった。アインシュタインはエルザと再婚する。結婚した5ヶ月後に、例のエディントンの皆既日食観測の発表があり、アインシュタインは世界のスターとなった。
なぜだか子供時代からアインシュタインはドイツとの相性がわるい。(アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人である) しかし、エルザと結婚したときから、ベルリンにいたアインシュタインの生活が、光輝く方向へと展開していく。ドイツの片隅の小さな場所で暮らしていた彼が、活動の場をおおきく広げていくことになる。
1919年の暮れに科学の大スターになったアインシュタイン博士は、1920年から各国を訪問している。チェコ、オーストリア、アメリカ、イギリス、フランスと旅を重ねる。どこへ行っても、ア博士行くところ熱狂的な科学ブームが起こった。また、愛されるキャラクターでもあった。
そんなアインシュタイン博士が一番行ってみたいところ、それが東洋、日本だった。はじめに交渉にあたった室伏高信は博士についてこう記している。
「彼の態度は非常にゆったりとしています。しかし彼の目は終始夢見るように、幻想そのものであるのです。口元も子どものように愛くるしいところがあって、その声さえも九つか十の子どもの声だと思われるほどなのです。『東洋人はみな小さい。人が小さいから家も小さいだろう。どんなに小さいか? どんなに小さい家だろう!』彼はこういって私に尋ねるのです。自問自答もするのです。東洋の家が如何に小さいものであるかということを想像して、そこに彼自身の美しい東洋の空想を描きながら、なんともいわれない喜びを感じているのです」
ある夜、秋田がアインシュタイン夫妻とベルリンの街を歩いていた。空には煌々と月が輝いていた。突然、エルザ夫人がこう言った。
「日本にも月はあるの?」
「… 」 どう答えようかと秋田が思慮していると、アインシュタインが言った。
「馬鹿なことをいいなさんな。日本にはもっといい月があるよ」
エルザ夫人には、物理学など、どうでもよかった。地球が丸くてその周りを月がめぐり、日本という国がどこにあるなんてことも考えたことがなかったのだろう。東洋への好奇心も、それほどなかった。長い旅に二人で出れば、心配事も増える…。彼女にとってはそっちが重要事だ。だが、この「日本にも月はあるの?」という質問は、ささやかな興味が彼女のなかに生まれてきたことを示しているともみれる。 そんな煮え切らないエルザ夫人を、秋田、田辺、そしてア博士が粘り強く説得した。
「そうしましょう」
ついにエルザ夫人は同意した。この時、アインシュタインの訪日が確定した。1922年秋、日本への4ヶ月をかけての大旅行の始まりである。
改造社同人秋田忠義は1922年3月、香取丸で日本を出発し、ドイツへむかった。アインシュタインとの訪日計画はすでにほぼ合意に達していた。ドイツ在住の哲学者田辺元の協力を仰ぎ、その最終交渉へ当たった。
アイシュタイン博士は大乗り気であった。博士の心はすでに日本への旅にあった。
だが残された問題があった。アインシュタインの妻エルザ夫人の合意を得ることだった。しかし、エルザ夫人の心はなかなか決まらない…。
アインシュタインは二度結婚している。
一度目の相手は、ミレーバという名の同じ大学で物理学を学んでいた女性で、1903年に結婚したが、その前に生まれた長女は養子に出している。その後、二人の男の子を得る。しかし、家庭はうまくいっていなかった。アインシュタインという人は、親しみやすい人柄だったが、よその子供とはうまく遊べても、自分の家の子供との付き合い方がわからない、というようなタイプの人だったのではないだろうか。科学に没頭するだけのアインシュタインに、ミレーバの不満が蓄積して行ったようである。アインシュタインがスイス・チューリヒからドイツ・ベルリンへと移った時、ミレーバと子供達は一緒に行かず、別居となった。
1916年にアインシュタインは、一般相対性理論を完成。
その後、アインシュタインは体重が25キロも減るという大病になるが、その時に看病してくれた女性がエルザであった。エルザはアインシュタインの母方の従姉で3歳年上、彼女もまた離婚したばかりだった。アインシュタインはエルザと再婚する。結婚した5ヶ月後に、例のエディントンの皆既日食観測の発表があり、アインシュタインは世界のスターとなった。
なぜだか子供時代からアインシュタインはドイツとの相性がわるい。(アインシュタインはドイツ生まれのユダヤ人である) しかし、エルザと結婚したときから、ベルリンにいたアインシュタインの生活が、光輝く方向へと展開していく。ドイツの片隅の小さな場所で暮らしていた彼が、活動の場をおおきく広げていくことになる。
1919年の暮れに科学の大スターになったアインシュタイン博士は、1920年から各国を訪問している。チェコ、オーストリア、アメリカ、イギリス、フランスと旅を重ねる。どこへ行っても、ア博士行くところ熱狂的な科学ブームが起こった。また、愛されるキャラクターでもあった。
そんなアインシュタイン博士が一番行ってみたいところ、それが東洋、日本だった。はじめに交渉にあたった室伏高信は博士についてこう記している。
「彼の態度は非常にゆったりとしています。しかし彼の目は終始夢見るように、幻想そのものであるのです。口元も子どものように愛くるしいところがあって、その声さえも九つか十の子どもの声だと思われるほどなのです。『東洋人はみな小さい。人が小さいから家も小さいだろう。どんなに小さいか? どんなに小さい家だろう!』彼はこういって私に尋ねるのです。自問自答もするのです。東洋の家が如何に小さいものであるかということを想像して、そこに彼自身の美しい東洋の空想を描きながら、なんともいわれない喜びを感じているのです」
ある夜、秋田がアインシュタイン夫妻とベルリンの街を歩いていた。空には煌々と月が輝いていた。突然、エルザ夫人がこう言った。
「日本にも月はあるの?」
「… 」 どう答えようかと秋田が思慮していると、アインシュタインが言った。
「馬鹿なことをいいなさんな。日本にはもっといい月があるよ」
エルザ夫人には、物理学など、どうでもよかった。地球が丸くてその周りを月がめぐり、日本という国がどこにあるなんてことも考えたことがなかったのだろう。東洋への好奇心も、それほどなかった。長い旅に二人で出れば、心配事も増える…。彼女にとってはそっちが重要事だ。だが、この「日本にも月はあるの?」という質問は、ささやかな興味が彼女のなかに生まれてきたことを示しているともみれる。 そんな煮え切らないエルザ夫人を、秋田、田辺、そしてア博士が粘り強く説得した。
「そうしましょう」
ついにエルザ夫人は同意した。この時、アインシュタインの訪日が確定した。1922年秋、日本への4ヶ月をかけての大旅行の始まりである。
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