はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

哲学はエロいのだ(たぶん)

2008年01月10日 | はなし
 哲学は、わからない。いまさら判ろうともあまり思わぬが、哲学者に興味はある。「あんた、なんでそんなこと考えるのさ?」 その答えが知りたい。知りたい、といっても、じつのところ、すでに僕の中では答えがほぼ、でている。
 哲学者がテツガクするのは、それが「エロい」からだ。そうにちがいない。哲学者が「考える」というアホなことに時間を浪費するのは、それが「恋」だからなのだ。
 人はなぜ「恋」をするのか。理由はない。いや、あるのだろうが、それがはじまったときにはわからない。わからないから、謎だから、面白いのである。
 自分を突き動かす「野生」によって「恋」はすすむ。その自分の内側にあるそいつ「野生」は、「なにか」を求めている。それが何かわからない。「謎」にむかってすすむ…。
 そうして、やがて、自分の内の「野生」と、「なにか」が交ざり合う。エロい。それが恋であり「テツガク」だとおもうのだ。

 中沢新一『フィロソフィア・ヤポニカ』という本は、20世紀前半に日本の哲学の礎を築いた二人の哲学者が何を考えていたのか、を解説した本です。二人の哲学者とは、西田幾多郎と田邊元(たなべはじめ)。このうち西田は有名なのですが、田邊の「考えたこと」は影のように隠れてしまっています。それを中沢氏が掘り出してこの本で明らかにしている。西田以上に、個性的でおもしろい(つまり僕流にいえば「エロい」)ことを考えていたと、中沢新一は田邊元を再評価しています。(たなべはじめ…と書いたとき、「たべはじめ?」と思いました。)
 西田幾多郎と田邊元、二人とも京都大学の教授だったのですが、実は僕はこの二人ともに、すでにこのブログの中に脇役ながら登場させています。アインシュタインがらみで。
 西田幾多郎→07年9月19日「詠う物理学者」9月22日「ヒヤデス星団」
 田邊元(田辺元)→07年10月4日「伯林の月」
 (こんなふうに、いま、僕の読書はつぎつぎといろんなものがつながっていきます。これまた、エロい。)
 西田幾多郎は、改造社の社長山本にアインシュタインのことを教え、ア博士の訪日のきっかけをつくった人として。西田は、アインシュタインが京都で講義をしたときに「今日は相対性理論のできるきっかけを話してもらえないか」と注文をだした。その話をア博士はなぜか欧米ではほとんどしておらず、しかしア博士は承諾してくれた。それで博士の日本・京都での講義は貴重なものになっている。
 そして田邊元は、ドイツでの、ア博士と改造社との訪日計画の最終交渉の場にいた。交渉にあたったのは「伯林の月」秋田忠義であったが、秋田だけではドイツ語に自信がない。それで、当時ドイツ留学中だった37歳田邊元の協力をあおいだわけだ。
 田邊元は、東京神田生まれ、初め東京大学数学科に入ったが、やがて考えることは好きだが数学的な計算処理が苦手だと気づき、哲学の道へと変更する。

 さて、僕はこの本をよみながら、結局、「田邊元の思想」のリクツがさっぱりわからなかった。なめるように(考えずに)読み飛ばすので当然だが。だが、「テツガクはエロい」というその感じをつかもうとした。哲学者は「テツガク」に「エロいなにか」を感じている、それはどのようなものか。彼らが「学者コトバ」で構築する文章の底を、流れている「エロいもの」があるのだ。
 学者は、学者として評価されなければならないので、「それ」を学者の言葉で描く。同じものを、神話は「熊」や「ねずみ」や「亀」をつかって描く。底に流れているものは…
 テツガクはきっと、エロい。

 こんなエピソードが書いてありました。
 ヒトラーの勢力下にあったドイツで、哲学者ヤスパースは寂しくこころ細い誕生日を迎えようとしていた。ヤスパース夫人はユダヤ系の人であった。
 日本で、そんなヤスパースのことを心配しているシンチンガーという人がいて、ヤスパース先生を励ますために、日本の大学から「名誉博士」を送るなどできないだろうかと大学に相談に行った。その相談に乗ったのが田邊元で、日本の哲学者たちはヤスパース先生を師と思っている、しかしそういう称号を送ってもヤスパース先生はうれしくないだろうから…と知恵を絞った。そして田邊はヤスパースに手紙を書いた。
 孤独と暴力的圧力による緊張の中で58歳の誕生日をむかえていたヤスパースは、その日本からの手紙を読んでよろこんだ。そこには、誕生日のお祝いの言葉と、そして京都大学で刊行している『哲学研究』にぜひともヤスパース師の原稿を賜りたいと書かれていた。ヤスパースはすぐに「世界知の限界と自由」という論文を書いて日本に送った。
 田邊とヤスパースとは、かつて面識はあったが、親しく交際していたというわけではないようだ。だが、ヤスパースは田邊のことを覚えていた。戦後、ヤスパースはその手紙について「これは、当時のドイツで、かろうじて私の身を守ってくれた唯一のものでした」と記している。

 田邊元は、晩年を北軽井沢ですごしました。そこで、どうやらプラトニックな(とおもわれる)両思いの恋愛をしていたらしいのです。その相手は同年齢の女流小説家・野上弥生子。そしてこれを証言したのは、哲学者の梅原猛。 中沢新一は、そのことを書いたその梅原の文章を読んで、なるほど、そうか、と思ったそうです。晩年の田邊元の哲学論文には、難解な文字の中に「愛」という字が多くみられるというのです。

 370ページに及ぶこの本の、p287にこう書いてありました。

 〔田邊哲学とは、いかにも厳格で禁欲的なその外見とは裏腹に、じつは精妙な概念として語られた「愛の哲学」なのである。いや、むしろ、構造的に言えば、性愛の哲学だ。〕

 また、別のページ(p270)には、こう…

 〔「種の論理」に結晶していく田邊元の哲学思考は、エロチックな構造を潜めている。それはリゴリズムで武装しているかのような外見に反して、柔らかい皮膚に包まれた女性性を内部に湛えている。〕

 ほーら、やっぱりね。


 むううー。 じっくり眺めてみると、だんだん田邊元のすごさがわかってきたぞ。

〔神愛即隣人愛という往相即還相の転換的統一こそ、積分と微分の愛と自由とに相当する相関関係を、全即個として個の連帯にまで展開するものでなければならぬ。この宗教的愛と媒介せられた個の自由が、連帯的に微分の内包的秩序と積分の愛的全体との相即としてルベエグ計量に象徴せられるのではないか。… 〕

 ル、ルベーグ積分を使って「愛」を語っているぞ! 「積分の愛的全体」ってなんだよ!?
 こりゃあ、ヘンタイだ!! 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿