はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

ラフカディオ・ハーンの漫画

2008年01月12日 | まんが
 ハーンの写真を鉛筆で模写しました。ハーンは写真に写るときはいつも左を向いています。なぜかというと、自分の左目を「醜い」と思っていたから。16歳のとき、友人と遊んでいて誤ってロープの結び目が当り、左目を失明しました。以後、本能的に談話中も相手から隠すように傷ついた目の上に手を置いていました。
 でも、もとはかなりハンサムですね。

 ギリシャのレフカダ島で生まれたハーンは、イギリスで育ち、成人してアメリカに渡りました。そこでの仕事は新聞記者です。ハーンは、ある殺人事件の記事を書いて有名になります。こんな感じの…

 〔近づいて観察するとその遺体の恐るべき状態がだんだんと判然としてきた。___半焦げの腱によって互いに引吊られ、半ば溶けた肉によって恐ろしい様で膠状に引きついた。ボロボロに崩れかかった人骨の塊と、沸騰した脳髄と、石炭と混ざってにごりになった血。 … 〕

 ずいぶんくわしく観察した死体の描写です。新聞記事にしてはくわしすぎるこのような描写がえんえんと続くのだそうです。


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 これらはハーンの描いた漫画です。
 1879年に、ハーンは2年間働いた『アイテム』紙が経済的に破綻寸前であることを知りました。そこでハーンは、自分が絵を描くので記事に挿絵をつけてはどうかと編集長に提案します。この提案は受け入れられ、そして成功でした。『アイテム』紙はもちなおします。
 ハーンは、その後2年間に175点の挿画を描いています。味のある、街の観察日記のような内容です。

 これを見て僕は、岡本一平を思い浮かべました。
 画家としての才能に限界を感じていた岡本一平は、縁があって朝日新聞へ入社します。一平は漫画(一枚画)を描いて、ちょっと長めの味のある文章をつけ加えました。もともと「小説家になりたい」と父に申し出たくらいですから文章を書くのもすきなのです。
 同じ朝日新聞に、夏目漱石がいて、漱石はある日、岡本一平を自宅へ招き、「君の文章はとてもいい。時には画よりも文のほうが優れていることさえある」というようなことを言っています。以後、漱石と一平は親しくなります。
 岡本一平の活躍は1910年代以後のことですから、漫画家としては、ハーンのほうが、なんと30年ほど先輩ということになります。ハーンが日本に来たのは1890年、その時、一平、まだ4歳。 漱石はその年に帝国大学(東大)入学。
コメント
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