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はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

中野サンプラザとその周辺

2009年07月25日 | はなし
 中野サンプラザ。
 中野サンプラザは中野駅の北口すぐにあります。写真のとおり、△形の建物です。
 僕が東京に出てきて最初に住んだ街が中野。ずいぶん昔の話ですが。 僕の住んだ部屋は中野駅の南側にあって、中野公会堂や堀越高校の近くでした。

 引っ越してきた翌日の朝に僕は、中野サンプラザの横にある中野区役所に転入届けを出しに行き、ついでに中野サンプラザの中に入ってみました。
 この建物の一階は広いフロアになっていて、ガラス張りなので明るい光が燦燦と入ってきます。(←そうか、だから「サンプラザ」なのね!) 今はどうなっているか知りませんが、奥にプレイガイドがあり、窓側にはソファーが広々と並んでいました。
 さて僕はそのソファーに座り煙草をとりだして…、向こう側にはカップルが座っていましたが…「んん!?」 なんと、男が、女の腹や胸を触りながら、おだやかに会話しているじゃあ~りませんか! 午前中の、こんなに明るい光のなかで! 
 それは…? あり、なのか?
 「う、うーん…。 東京って、すごいところだ。
 と、心の中で僕は感想をもらしました。 (東京っていったって、人が多いだけのことさ)、基本的にそのように考えていた僕は、(いや自分が間違っていた、考えを改めねばならぬ)とこの時、悟ったのです!!

 しばし休憩して、さあ帰ろう、と立ち上がったとき、フロアの真ん中にある階段から、ぞろぞろと制服姿の男女が出てきました。堀越高校の制服でした。 この日、中野サンプラザの大ホールで入学式が行われていたようです。


 以上、中野サンプラザのおもいで話でした。
 そうそう、数年前、ここで将棋を指しました。 アマ竜王戦(東京都予選)だったかな…、2連敗で悄然…(笑)。 さすが東京…、強いわ。
 その日のサンプラザの大ホールでは、「古武術発表会」なるものが開催されており、無料だったので、ちょっと見学。 それからラーメン食べて帰りました。




 中野サンモール。 これも北口。
 つまりはどこにでもある商店街なのですが、この奥に例の「中野ブロードウェイ」があり、それが中野サンモールの特別なところ。 「まんだらけ」には住んでいた当時も数回行ったことがありますが、当時はまだ小さなまんが専門の古本屋にすぎず、中野も現在のようなフィギアのメッカではまだありませんでした。
 その「中野ブロードウェイ」に行ってみました。 初体験のようなもの。




 撮影許可を得て、ショーケースを写す。
 ヒーロー達…いや、ヒーローのコピー達…。
 うーん、彼らにとってしあわせな場所とはどこなのか?




 せっかくなので、1コ、買う。 ミクラスじゃ~、¥350。
 カプセル怪獣とは、そもそも何なのか、誰かおしえてくれぬかの~。


 余談ですが、サンプラザ中野の北のこのあたりには、「二人組の警官」の幽霊がよく出ます。――というのは半分ウソで、幽霊ではなく、「リアル警官二人組」にちょくちょく出会います。僕の友人が当時そのあたりに住んでいまして、遊びに行く途中、僕もよく出会いました。東京はなんて警官が多いところか、と僕はおどろきました。 一日に何度も出会うのですから!
 これにはカラクリがあるのでした。 というのは、昔、陸軍中野学校(←スパイ養成学校!)がこのあたりに在りまして、その流れで、警官の学校とか寮とかそのようなものがそこにあったのでした。 今はどうなのか、とか、詳しいことは知りません。
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らいおんみどり

2009年07月21日 | はなし
 虹が出ました。
 おとといのことです。 いや~、いい虹でしたね~。

 後でおどろいたのは、東京のほとんど全域からあの虹が見えたということ。 丸の内でもお台場でも武蔵野でも。 あんなに広範囲で一つの虹が見れるものなんですね!


 「虹」のブログ写真 →        



 「虹」でおもいだす物語といえば、さて、僕の場合は、宮沢賢治『十力の金剛石』と、中川李枝子『かえるのエルタ』。 (みなさんは、どうですか?)

 「そら虹だ。早く行ってルビーの皿を取ろう。早くお出でよ。」 (『十力の金剛石』)


 「ルビーの皿」というのは、虹の脚もとにあるという「ルビーの絵の具皿」のこと。 って、どんなんでしょう?

 『かえるのエルタ』は、僕が小学生の時にいちばんすきだった話。図書館で何度もくりかえし読みました。
 こんな話です。


 かんたくんは赤い目のかえるのおもちゃを拾います。それが「エルタ」です。
 雨が降って濡れると、エルタは生きたかえるになり、かんたとエルタは船(うたえみどりのはっぱごう)に乗って冒険に出航します。

 雨があがって、虹がでました。
 かんたとエルタは虹の橋を歩いて渡ります。

 ところが、はしゃぎすぎて、二人は虹の橋から滑り落ちてしまいます。
 虹から落ちてしまったかんたくん。気がつくとエルタはいません。エルタをさがしに行かなきゃ…。
 そこで出会ったのが「らいおんみどり」という名のへんならいおん。らいおんみどりはトランプの相手を探していて、かんたにトランプをしようと誘います。 かんたは断りたかったけど、らいおんみどりはこう言います。 「言うこときかないと食べちゃうぞ。
 しかたなくトランプの相手をするかんたくん。 らいおんみどりがトランプに夢中で考えている間に、かんたくんはそお~っと抜け出して…


 ――まあ、そんな話。 もちろんめでたいハッピーエンド。

 中川李枝子(なかがわりえこ)さんは、中川季枝子ではないのだ。 要注意!
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ウィルソンの「霧箱」、大活躍

2009年07月19日 | はなし
 ターンベリー灯台
 ゴルフの全英オープンのTV中継をこのところ深夜、やっているわけですが、なにげなく見ると、「灯台」が映っていて良い風景じゃありませんか。 「ターンベリー? ふーん、どこだろう…、」なんて思っていると、スコットランドだったんですね。場所を調べてみるとグラスゴーの南でした。
 ゴルフのTV中継をほとんど見ることのない僕ですが…。 59歳トム・ワトソン(全英オープン5度の優勝経験があるそうだ)がいまトップを走って注目されています。 強い風が吹いているね。(寒いらしい。)



 今日はウィルソンの「霧箱」の話をします。
 といっても僕はその実物を見たことがなく、多くの人にとって必要のないものです。ただし、物理学、化学を学ぶ人々にとってはおなじみのモノなのかもしれません。 (「桐箱」ではないぞっ。それならワシも持っとります!)



 チャールズ・T・R・ウィルソン(1869-1959)という、エディンバラ近郊で生まれた男が、「霧箱」をつくった。1896年頃のことだ。これが物理学の実験室で大いに活躍して、それでウィルソンは、後にノーベル物理学賞を受賞することになる。


 スコットランドは霧の国――。 ウィルソンは霧や雲がすきだった。


 1894年9月に私は、スコットランド丘陵でいちばん高いベン・ネヴィス山頂に当時あった天文台で数週間をすごしました。小山の上にかかっている雲に太陽の光が当たったときに生ずるすばらしい光学現象、特に太陽のまわり(コロナ)や、山頂や人が霧や雲に落とす影のまわり(後光)にできる環状の虹の美しさに心をうたれ、同じ現象を実験室で再現したいものだと思いました。(C・T・R・ウィルソン談)


 これがウィルソンの動機である。彼はただ、美しい霧や虹を実験室でつくりたいと思ったのである。

 調べてみた。このベン・ネヴィスという山はイギリス最高峰のようで、標高1344メートル。 (最高峰で1300…てことは、イギリスってあんまり高い山はないんだね。) グラスゴーから北へ約100キロのところにある。スコットランドのこの一帯は「ハイランド」と呼ぶ。


 ウィルソンは霧の研究をはじめた。
 そして1895年暮れ、例のドイツ・ヴュルツブルクでのX線の発見があった。 ウィルソンは作り出した「霧」に、その(流行の)X線を当ててみた。 すると、どうだ。 空気中に生じたイオンを核として、「いつまでも晴れない霧」が作り出されたのである。
 「やった!」 ウィルソンは喜んだ。思った以上のものができたのである。


 さて、実は、ウィルソンが霧の研究をしたのはケンブリッジ・キャベンディッシュ研究所であった。そう、あのキャベンディッシュ研究所である。そこで彼はJ・J・トムソンの指導の下で働いていたのだ。
 ウィルソンは、自分の霧の研究を生かし「霧箱」をつくった。
 これが役立った。 すごく役に立った。
 この「箱」の中に、「荷電粒子」が飛び込むと、空気がイオン化されるために「霧」のシュプールが描かれる――つまり、「電子」の検出器となるのである。


 1897年、J・J・トムソンは、陰極線から飛び出す「電子」をついに捕まえた! ようやく、「電子」という粒子が、物理学の世界に姿をあらわしたのであった。
 ジョセフ・ジョン・トムソン(1856-1940)――彼はあのキャベンディッシュ研究所の3代目所長なのであった。マンチェスター生まれのこの男が、1884年、28歳の若さでその所長に大抜擢されたのだった。「電子」の発見は、そのケンブリッジ大学の期待に応える輝く偉業であった。




 その歴史的発見をを陰から支援したのが、ウィルソンの発明品「霧箱」だったわけです。
  

 スコットランド人C・T・R・ウィルソンが山の霧がとても好きで、そして、キャベンディッシュ研究所で働いていたという偶然を、僕は、おもしろく思うのです。
 そして「霧箱」の大活躍はその後も続くのです。



 トムソンの「電子の発見」はしかし、すぐに受け入れられたわけではなかったのです。反論の声はすぐに挙がりました。
 トムソンはあの「霧箱」を使ってデータを取り、「電子」の質量を計算し発表していたのですが――。
 「電子」という粒子の大きさ(質量)は、「水素」の1850分の1…そんな小さな粒子が存在するということは――これは、おかしいじゃないか! 「原子」というものが最小単位なら、それより小さな粒子がこの世に存在するはずないのに…。
 だいたい「原子」さえ、まだ誰も見たものはなく、それが存在することも証明されてはいなかったのです。

 だれにもわからなかった…。
 20世紀を前に、物理・化学の世界はますます混乱することになりました。
 でも、だからこそ、若い科学者にとって、大変に面白い時代でした。彼らは「謎」に夢中になりました。


 20世紀前半、やがて少しずつそれらの「謎」が解明され整理されていくわけですが、そのたいせつな脇役として、ウィルソンの「霧箱」はおおいに貢献することとなったのです。 (僕は一度も見たことがないわけですが。) 
 ウィルソンの「霧箱」がノーベル物理学賞を受賞したのは、1927年でした。
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メイ島灯台

2009年07月17日 | はなし
 メイ島灯台
 これまたエディンバラ沖、北海にあって、ロバート・スティーブンソンが施行したもの。1816年初点灯。

 やはり200年の歴史をもつ灯台で、当時のままの姿を保っているという。
 ただし、メイ島の灯台自体はもっと古くからあり、1636年に石炭を燃やした灯火が最初で、それがスコットランドで最古の灯台のはじまり。
 おだやかな雰囲気の灯台ですね。



 さて、前回はベルロック灯台を描いたわけですが、たまたま写真を見つけたのと、その灯台のシンプルさに何か惹かれるものがあって描きました。それ以上の知識はなにもなかったのですが、描いた後、ネットで、このベルロック灯台には、それが建設される経緯について、ある「ドラマ」が存在すると知りました。(おそらくイギリスでは有名な話なのだと思います。)
 以下、それを書いてみます。


 19世紀の初頭の話になります。
 ベル・ロックという岩礁があって、そこはよくそれまでも船の事故が起きたんですって。それで若い灯台技術者ロバート・スティーブンソンが、海の安全のためにそこに灯台を建てるべきだと、エディンバラ市に提案しました。 しかし議会はその提案を却下。できるわけがないじゃないか、と。灯台を建てるには困難なところだったからです。若造がなにを言うか、というところでしょうか。
 ところが、その後で、そのベル・ロックで史上空前の大事故が発生しました(1804年)。 戦艦ヨーク号がベルロック岩礁に乗り上げ沈没、船員500人が全員死亡したのです。
 それで、これは本当に危険だ、灯台を造ったほうが良い。しかし、できるのか? ベル・ロック岩礁が海上に姿をみせる時間は一日のうち数時間。そんなところに灯台をつくるなんてできるのか? だれがやるのか?
 あの男、スティーブンソンが「できる」というのだから、じゃあ、やらせてみよう――ということで、一応GOサインが出ました。



 さあ、男達の挑戦が始まった!

 ロバート・スティーブンソンは60人の職人達に言った。    (←田口 トモロヲのナレーションで読んでね)
 「一緒に生涯に残る仕事をしようじゃないか」

   ででんででんでん♪
   かぜのなかのすばる~♪  すなのなかのぎんが~♪

 こういう言葉に弱いですからね~、男は。 (ただし、それが持続するかどうか、それが問題。なのね~。)


 1807年、基礎造りが始まった。
 潮が引いて岩礁が浮き上がると男達は作業をし、数時間して、潮が満ちると船へ引き上げる。
 そのうち、スティーブンソンが、「これでは時間と労力が無駄だ。岩礁の上に宿舎をつくって、そこに寝泊りしよう」と決断。
 作業はしかし、順調というわけにはいかなかった。いろいろと予期せぬ問題もあって、職人達の不満もたまっていく…。 スティーブンソンというこの男に、この大仕事をまかせて、大丈夫だったのか?

 そんな中、追い討ちをかけるように突然の嵐がやってきた。これは、自分たちの命が危ない! だが、救助の船ももう間に合わない! どうなるのか!?
 ところが!!
 もの凄い嵐がきても、スティーブンソンの設計したそのベル・ロック岩礁の上の「宿舎」は、びくともしなかったのである。 (おそらくここから「天才スティーブンソン」の呼び声は始まったのだろう。)


 4年の歳月を費やして、ベルロック灯台は、1811年11月、ついに完成した。
 そしてそれは今もそこに建って、ベル・ロック岩礁の位置を、その海を渡る船に知らせているのである。



 という話。
 ――なるほど、そういう伝説をもつ人物なんですね、ロバート・スティーブンソンという人は。
 それと彼だけでなく、そこには(200年前の)「名もなき職人達」の生までも感じられ、いい話です。
 さてこの時、息子のトマス(作家ロバート・ルイス・スティーブンソンの父)は生まれていたでしょうか? トマスは多分、この父親が誇りだったんでしょうね。だからトマスは、父ロバートと同じ名前を付けた自分の息子に、このすばらしい灯台建築技術者の仕事を受け継がせたかったのでしょう。
 もっとも、息子ロバート・L・スティーブンソンは、(才能はあったかもしれませんが)、灯台技術者の道は無理だったでしょう。 彼はずっと体調に不安を抱えた一生だったですからね。


 たまたま、こういう話にたどり着きました。 「宝島」の地図を発見した気分です。
 そして僕はにわかに灯台ファンになっています。 今日も『日本の燈台』という本を借りてきて眺めていますが(笑)、たまらんわ~、灯台!
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ベルロック灯台

2009年07月15日 | はなし
 エディンバラの沖、北海に建つベルロック灯台
 この灯台、スコットランドで最も古い石造りの灯台なんですって。 初点灯1811年、施工者はロバート・スチーブンソン
 この人が、『宝島』の作家ロバート・ルイス・スチーブンソンのお祖父さんです。 スコットランドの「灯台の父」と呼ばれた人物。灯台造りの天才とも。


 その「灯台の父」ロバート・スティーブンソンはその義父トマス・スミスからその灯台造りの技術を学んだ。
 ロバートの父は、カリブ海の島で仕事中に熱病に罹り死んでしまった。グラスゴーにある会社の店主として働いていたが、その貿易先のカリブの島(セントクリストファー島)で、窃盗犯を追跡中に死んだという。
 それでその後、ロバートの母ジーンは再婚し、子どものロバートとともにエディンバラへ。ところがその再婚した相手の男は蒸発してしまう。 たまたま近所に住んでいた灯台建築技師トマス・スミスも2度の結婚の妻に先立たれ5人の子どもを抱えて困っていた。それでジーンがその子ども達のめんどうをみることとなり、自然にトマス・スミスとジーン・スティーブンソンは愛のある関係となり一緒になった。ジーンの息子ロバートはトマスに灯台造りを教わり、立派な灯台建築技術者となったというわけ。
 そしてロバート・スティーブンソンは、トマス・スミスの長女(これまたジーンという。ややこしい…)と結婚し、たくさんの子どもをつくり、そのうち三人の息子アラン、デヴィッド、トマスが父ロバートの灯台建築を受け継ぐ。このトマス・スティーブンソンが、作家ロバート・L・スティーブンソンの父である。
 血の繋りのないトマス・スミスと、ジーンの連れ子ロバート・スティーブンソンの灯台技術者としての師弟関係は、ロイド少年(妻ファニーの連れ子)とともに『宝島』の物語を創作した作家R・L・スティーブンソンの関係と対比されて、おもしろい。

 スティーブンソン一族の灯台は、その多くが今も健在だという。
 アラン(R・L・スティーブンソンの叔父にあたる)の造った「スカーリボール灯台」(1816年初点灯)は、塔高48メートル、海の岩礁にいまも建ち、「世界で最も優雅な灯台」とも称せられている。



 それにしても――、世界の灯台の写真を眺めていると、感動するものがあります。
 このベルロック灯台も、もちろん今も働いています。古い、ということは、それだけ船の航海の安全のために、「重要な地点」ということでもあるのですよね。
 僕などは、海のないところで生まれ育ったし、海や船や外国への憧れも少ないほうですが、それでも、200年も前に造られた灯台が、海の「難所」の荒波の中で黙って(そりゃそうだ)そびえ立っているのは、どれだけ褒めても褒めたらないという思いになります。
 そして世界の海のそれぞれの灯台を、(数十年前までは)名もなき灯台守が、そっと寄り添って支えていたのですねえ…。


 ところで、ロバートの孫、作家のほうのR・L・スティーブンソンは、南太平洋のサモアの島に住み、その島で死んだ(1894年)ことを御存知でしょうか。
 その墓は、彼の遺言により、島の山の頂上に建てられました。 彼が、灯台の如くに海と船と島の人々とを見守っているイメージが浮かんできます。 多くの文学者が、南太平洋の旅の途中に、彼のところに立ち寄っていくそうです。
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エディンバラ城

2009年07月11日 | はなし
 スコットランド(イギリス北部)の中心都市といえば、グラスゴーとエディンバラ。 エディンバラ城を描いてみた。


 19世紀の天才物理学者J・C・マックスウェル(1831-1879)はこのエディンバラで生まれ、エディンバラ大学を卒業した。
 1873年に発表したマックスウェルの『電気磁気論』は、電磁気理論の「決定版」とも言うべき完璧さ美しさをもっている理論である(らしい)。電気と磁気との間にある「謎」を、そのマックスウェル方程式でもってほとんど解決してみせたのである。 この中でマックスウェルは「電磁波」の存在を予言した。 この式が正しいならば、理論的に、そういうものが発生しているはずだ、と。 (私たちは日常それを「電波」と言っている。)
 1888年になって、ドイツ・カールスルーエ大学の実験室でハインリヒ・ヘルツが、その予言通り、「電磁波」を発見した。 そしてそのニュースを聞いて、「本当ならば凄い。よし、実験してみよう!」とはりきったのが、イタリアのマルコーニという男。マルコーニは、その後大西洋を越えて届く「無線通信」を実現させた(1897年)。  海を越えて言葉が届く! しかも「無線」で!  (そして1904年、ルクセンブルクの青年ヒューゴー・ガーンズバックは「ラジオ」の未来に人生を賭けアメリカへ――。)

 つまり、私たちが現在使っている携帯電話のルーツも、そのマックスウェルの理論にあるのである。

 ところで、長岡半太郎はドイツ留学(1893~96)の際に、ヘルツのカールスルーエ大学の実験室を訪れて見学している。カールスルーエはドイツ南部ライン川近くに位置している。



 さて、エディンバラは「世界的有名作家を生む街」でもあるようだ。 以下、エディンバラゆかりの作家の何人かについて触れてみよう。


 まず、アーサー・コナン・ドイル(1859-1930)。
 言うまでもない、『シャーロック・ホームズ・シリーズ』の作者である。
 彼のもともとの本業は医者だが、エディンバラに生まれ、エディンバラ大学で医学を学んだ。


 ウォルター・スコット(1771-1832)。
 「歴史小説の父」と呼ばれるエディンバラの代表作家。
 たとえば、映画にもなっている『ロブ・ロイ』。 ロブ・ロイは彼の創作によるスコットランドの英雄(いちおう元になっている人物は実在した)で、「ロイ」とは、「赤い髪」を意味するそうだ。
 コナン・ドイルはこのウォルター・スコットが大好きで、憧れていた。 ドイルがホームズをスイス・ライヘンバッハの滝で殺したのは、彼のような歴史小説が書きたかったからだった。実際にそれは書き上げたのだが、そしてなかなかの出来栄えだったらしいが、ホームズを復活させろと期待する声ばかり大きく、まともに読んでもらえなかったようだ。


 J・M・バリー(1860-1937)。
 『ピーターパン』の作者。
 スコットランド生まれ、エディンバラ大学を卒業。 晩年はこの大学の学長も務めている。
 子どもと公園で遊ぶのが大好きだったという。(その意味でも天才だ。) ロンドンの公園で知り合った子ども達との遊びが、『ピーターパン』の話の元になった。


 ただし、ドイル『ホームズ・シリーズ』も、バリー『ピーターパン』も、エディンバラで書かれた物語ではない。
 エディンバラで生まれた話ということで、今、有名なのは、次に触れるこの人である――。


 J・K・ローリング
 彼女自身はエディンバラの生まれではないが(イギリス南部の生まれ)、1994年、このエディンバラの喫茶店で、毎日毎日一杯のコーヒーだけを注文して居座って、『ハリー・ポッター 賢者の石』を書いた。 その喫茶店(エレファントハウスって言うんだってさ)は今、観光客が見物に来るという。
 もしかしたら、そこにはニコラ・フラメルの霊が居たかもしれない。ニコラ・フラメルは14世紀フランスの錬金術師、もともと出版業をしていたフラメルは錬金術(賢者の石)で大金持ちになったと伝えられている。
 『賢者の石』は、そのフラメルの「石」を見つける話である。ローリング女史はその喫茶店で「石」を見つけたのか? そうなのか?



 そして、ロバート・ルイス・スティーブンソン(1850-1894)。
 『宝島』、『ジキル博士とハイド氏』の作者である。
 エディンバラの王立植物園のすぐ近くで生まれた。
 スティーブンソンの父トマスは、祖父の代から、灯台建築技術者だった。父も、その仕事を受け継ぐことを息子に望み、息子はエディンバラ大学に入り、土木工学を学んだ。ところが息子ロバートは、20歳の時、「作家になりたい」と言い出し、26歳になると10歳年上の子連れで人妻のアメリカ女性ファニー(フランシス・オズボーン)と恋に落ちる。 「10歳年上!? 人妻だと!?」父トマス、ショック! 
 その後ロバート・スティーブンソンは、この女性ファニーを追いかけ続け、30歳でやっと彼女とアメリカで正式に結婚するも、喀血して倒れる。結核と診断される。(ただし、結核ではなかったという説もあり。)
 その報を聞き、息子のことを心配した父は、すべて許そう、帰って来い、と電報を打つ。
 そうして1880年エディンバラの父のもとへ帰ってきたロバートとファニーと連れ子のロイド。父トマスはあたたかく三人を迎えた。父とファニー(この時40歳)は意外にもすぐに意気投合。
 ロイド少年は絵を描くのが好きで、ロバート・スティーブンソンも一緒に絵を描いて過ごしていた。1881年のある日、スコットランドの保養地で、たまたま二人が書き始めた「架空の島の地図」。 そこから生き生きとした「海賊たち」の空想がスティーブンソンの中に生まれ出た。 『宝島』の誕生である。 彼は13歳のロイド少年のために、1章ずつその話をつくり、話したが、やがて父トマスも熱心な聞き手となり、そればかりかアイデアの提供者にもなったという。
 こうして『宝島』は誕生し、1883年に出版された。 なにしろこの物語は抜群に面白い。 忽ち、大ベストセラーとなった。
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キャベンデイッシュがゆく

2009年07月07日 | はなし
 
 天才マックスウェルが『電気磁気論』を表したのが1873年。そしてケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所初代所長でもあったマックスウェルは、ヘンリー・キャベンディッシュの埋もれていた「ノート」を整理し、追実験も行った。マックスウェルはまだ40代であったが、その脂の乗った時期の5年間をその「キャベンディッシュ・ノート」のために費やした。マックスウェルほどの大科学者がそんなことをしなくても…と思われるのだが、たぶん、それがとてもおもしろかったのだろう。天才は天才を知る、ということかもしれない。偶然だが、キャベンディッシュ(1731年生まれ)とマックスウェル(1831年生まれ)は、ピッタリ100年の時を経てこの世に誕生している。
 そしてマックスウェルは1879年11月に他界した。その前月10月に『ヘンリー・キャベンディッシュ電気論文集』を出版した直後であった。 マックウェルの死と入れ替わって、長らく埋もれていたヘンリー・キャベンディッシュの科学実験研究ノートの驚愕の中身が世間に明らかとなった。


 キャベンディッシュ、畏るべし!

 なんということであろうか!
 彼は、あの「オームの法則」までも、すでに1781年に発見していたのであった!
 「オームの法則」はドイツ人ゲオルク・オームが1827年に発表した電流・電圧・抵抗の関係を表す数式である。 それより40年以上前…ヘンリー・キャベンディッシュの時代にはまだ電流計もなかったというのに…。 彼は独自の工夫でそれを克服し、「オームの法則」と同じ式を導き出し、しかしそれを発表もせずにいたのである!
 何者なのか、キャベンディッシュ!?


    

 これはその「ヘンリー・キャベンディッシュ」の肖像画。

 彼が人間関係が大の苦手だったことは既に前回記事にて述べた。その日の食事の内容など要望や用事があるときは使用人にメモ書きで伝えていたという。うっかりその手順を間違って(あるいはたまたま運悪く)キャベンディッシュ本人と出くわしてしまったために、それが理由で解雇された女使用人がいたとか。
 それでも、キャベンディッシュ氏は、公の会合などに出席することもあった。その様子はやはり、おどおどしていたそうである。 そういう様子でも、知性の輝きも確かにはっきり感じさせたという証言もある。
 そんなキャベンディッシュが、人に自分の肖像画を描かせよう、なんて思うはずもない。 上の肖像画は、アレクサンダーという画家が、王立協会の午餐会に出席したキャベンディッシュ氏を、遠くのテーブルからこっそりスケッチして「隠し描き」し、それを下絵に後で描き直したものである。

 キャベンディッシュの原稿

 当時のあるフランスの学者が、「キャベンディッシュは、科学者の中で一番の金持ちであり、金持ちの中で最も偉大な科学者である」と言ったそうだ。
 その金持ちの度合いもハンパじゃない。 この時代、イギリスの総人口1700万人に対し、年収5千ポンド以上のものは約3千人、これは人口の0.02パーセントだが、キャベンディッシュは毎年8千ポンドの収入が保証された財源と運河を持っていた。彼が死んだとき、その他には、銀行にに5万ポンドの預金、そしてイギリス最大の公債(その価値は70万ポンド)を残していたという。
 この財産をすべて父から相続して得たかというと、どうもそれだけではないらしいのだ。 ヘンリー・キャベンディッシュは父が死ぬ前から、すでに巨額の財産をもっていたという証言があるという。 ある人は伯母から、別のある人はインドで財をなした伯父からその遺産を譲り受けたと証言しているのだが、ところが、調べてみても、そういう財産家だった「伯母さん」も「伯父さん」も、見当たらないのだそうな。

 つまり彼の性格、研究成果に加え、その「財産」の出所もまた、謎に包まれているのである。



 もう一つ。
 「ゲイ・リュサックの法則」もまた、キャベンディッシュの「ノート」の中には見いだされていた。
 「ゲイ・リュサックの法則」――これは、僕は高校時代に「ボイル・シャルルの法則」として化学で習った。気体の膨張に関する関係式である。この式はドイツ人ゲイ・リュサックが1802年に発表したが、実はイギリスでシャルルが先に1780年に見つけていたということらしい。 そしてキャベンディッシュはもっと前に。



 それから、ファラデーの…

                 …いや、このへんでやめておこう。 もはや、呆れるばかりである。
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「クーロンの法則」、その発見者

2009年07月04日 | はなし
 18世紀になってやっと、「電気」の研究ははじまった。
 その電気には2種類あるとわかった。(プラスとマイナスのこと。それを発表したのはアメリカのベンジャミン・フランクリン。)
 電荷をもつ2つのものを置いたとき、引っぱりあう力(引力)が働くときと、反発する力(斥力)が働くときとがある。それは、よし。――では、その際の「力」の大きさは?
 その場合の、力(F)の大きさが、2つのものの距離(r)と電荷(q)によってどう決まるか、についての計算式、それが「クーロンの法則」(上図)。 つまりこれは、「電気力の大きさ」を示す式である。


 前回記事でマルティニーク島について触れたので、今回は、この島といささか繋がりをもつ人物クーロン氏のことを書いてみます。

 ‘クーロン’って? 物理の教科書にも出てくる「クーロンの法則」――これをつくった(発見した)のが、フランス人シャルル・ド・クーロン(1736-1806)。

 このクーロン氏、マルティニーク島に8年間フランス陸軍から派遣されて滞在しているのである。ただしそれは1764年からのことで、だからゴーギャン、ハーンの時代(1887年)よりも120年以上前になるけれども。 土木が彼の専門だったようだ。 このカリブの小さな島、マルティニーク島の周囲は、イギリスやスペイン等他国の領有する島々で、だからこそフランスにとってこの島が軍事的に重要だったのだろう。
 で、シャルル・ド・クーロンは、そういう任務に就きつつ、同時に科学の実験を行った。摩擦や電気に関する実験である。
 その後、フランス母国へ戻り、研究・実験も続け、そして1785年、「クーロンの法則」を発表した。


 よく考えてみよう。これは驚くべき発見である。
 というのは、これ以前には、まだ電気に関する研究で、数式で示されたものなどほとんどないからである。
 たとえば、(私たちが中学で習う)あの単純な基本の式「オームの法則(I=E/R)」、あれが歴史の中に登場するのは1826年だから…、「クーロンの法則」は、それよりも40年も早く登場しているのである。
 イタリアのガルバーニがカエルの脚が電気で動くということを発見・発表し話題になったのが1780年。同じくイタリアのボルタが電池を発明したのは1800年。オランダでエールステッドが電気力で磁石が動くことを発見してびっくりしたのが1820年。
 そんな電気学の始まりの時代に、1785年、「クーロンの法則」のような数式を提示していたというのは、シャルル・ド・クーロンが図抜けてすぐれた科学者であったことを示している。




 ところが、である。

 ずっと後――1870年代になって、シャルル・ド・クーロンよりも10年ほど前に、これと同じ法則を先に見つけていた男がいた、という事実が明らかになったのである!!


 その事実を明らかにしたのはイギリスのJ・C・マックスウェル(1831-1879)だ。 マックスウェル自身、19世紀の電磁気学を一つにまとめた物理学の大巨人である。(―ただし、今日の主役は彼ではない。)
 1870年頃、イギリス・ケンブリッジ大学に、大資産家のキャベンディッシュ家から多額の寄付があった。そして設立されたのが「キャベンディッシュ研究所」。 で、その初代所長にJ・C・マックスウェルが就いた。
 もともと、キャベンディッシュ家からは、18世紀後半、ヘンリー・キャベンディッシュというすぐれた科学者が出ていたのである。

 本日の2ばんめの主役、登場です。


       

 ヘンリー・キャベンディッシュ(1731-1810)。
 彼は、気体の「水素(Hydrogen)」の発見者として化学史に名を残している。また、地球の密度を最初に測定した者として。
 ただ、キャベンディッシュが「水素」についての研究発表をしたとき、フランスのラボアジェが「俺のほうが先にそれは見つけていた」といちゃもんをつけた。それはほんとうだったかもしれないが(そしてラボアジェも確かに優秀な科学者であったが)、発表していなかったのだから、しかたがない。 それで、「水素の発見者」という栄誉はキャベンディッシュのものとして認められることなったわけだ。
 おもしろいのはこの後である。
 キャベンディッシュは、人間関係のわずらわしさを出来うる限り避けて暮らしていたという。彼のことを調べると、「キャベンディッシュは変人だったので…」などという文章がしばしば出てくる。 「シャイ」というレベルではなく、「変人」と呼ばれるほどの、人付き合いの苦手な男だったらしいのだ。食事もドアの前に持ってこさせて、できるだけ人との接触を避け、部屋の中で一人で食事をとっていたのだという。
 そういう人物だから、キャベンディッシュは、「水素」についてのラボアジェとの「揉め事」にすっかりうんざりしたようなのである。 それでその後は、コツコツと自分の好奇心にしたがって研究・実験を重ね、しかし、そのままにして発表しなかった。だから、彼が何を考え、何を実験していたか、他の人は知りようがなかった。
 キャベンディッシュのその実験結果と考察は、彼のノートに記された。そのノートは何十冊にもなり、そして1810年にキャベンディッシュは78歳でこの世を去る。彼の研究ノートは(彼のもともと沢山あった資産とともに)キャベンディッシュ家に残された…。


 そして60年後。
 上に述べたように「キャベンディッシュ研究所」が設立された。初代所長マックスウェルの最初の仕事は、眠っていたヘンリー・キャベンディッシュのノートを調べ、その実験を綿密に検証し、『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学論文集』としてまとめることであった。
 すると次第に、キャベンディッシュの実験は大変に信頼できる精密なものと判り、さらに、次の驚くべき事実が判明したのであった。



 ヘンリー・キャベンディッシュはすでに1773年に「クーロンの法則」を見つけていたのである。
 シャルル・ド・クーロンよりも12年早く。



 しかも、それだけではなかった――。 
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われわれは何処へゆくのか

2009年07月02日 | はなし
                                  ↑ 「タヒチ」でしょ!

 『ゴーギャン展』へ行こうか行くまいか、迷っている。
 あの大作が観られるということで、ここは行っとくところかな、と。
 『われわれはどこからきたのか、われわれは(以下省略)』のことである。

 この作品はゴーギャンの集大成で、タヒチの島で1897年に、「ああもう死のう。でも死ぬ前にこれだけは画いておこう。」と描いたものである。
 そうして描いた後に自殺したが、しかし失敗。

     
     ↑
 これはゴーギャンがタヒチにて手書きで書いた本で、『マオリの古代信仰』。
 しかし、マオリ族は、ニュージーランドのはずだけど…?



 タチヒ島はどこにあるか? (←タヒチ、ね。)
 太平洋である。 ポリネシアのど真ん中で、日本から直通のエアラインがあって11時間で行けるようだ。 (なんとお手軽なことか!)
 もちろん19世紀は船で行くしかない。フランスからは、南米大陸の南端をまわって。


  
     『ミミと猫』(1890年)  かわいらしい絵だ。


 ポール・ゴーギャンという人は、「漂白の人」というイメージだ。 (「漂泊」でしょ~。白くしてどうする!)
 パリで生まれ、1歳から7歳までペルーで暮らす。フランスへ戻り、成人して結婚もし安定した生活をしていたが、30代で家族を捨て画家の道を選ぶ。
 フランス南部のアルルでゴッホとともに絵を描いていたことは有名である。ゴッホは1890年に死ぬが、ゴーギャンがタチヒ(←タヒチ!!)へ行くのは翌1891年からである。


 ところで、ゴーギャンはゴッホとのアルルの生活の前に、1887年に、マルティニーク島へ行き、ここでも絵を描いている。この小さな島はフランス領で、カリブ海にあるが、ほとんど南米大陸に近いところにあって、熱帯気候である。

  
   ↑ マルティニーク島でゴーギャンが描いた絵の中の猫。(1887年)


 そして面白いことに、この同じ時に、あのラフカディオ・ハーン(小泉八雲)もまた、この島に(2年間)住んでいて、この二人は数百メートルの距離に存在していたのである!

 ハーンはゴーギャンよりも2歳下であるが、彼もまた、どういうわけか「島」への強いに憧れをもつ「漂白の人」(漂泊ね。)であった。 そういうのはどうも、生まれ持ったなにかではないかと、僕は思う。
 だいたいハーンの父親が、これまた「漂白の男」(いや、だから…漂泊)である。彼はアイルランドに生まれ、ギリシャの島で女に恋をし、そしてラフカディオが生まれ、その息子をアイルランドへ連れて行くも、別の女との恋にはしり家に帰らず、インドへ行き、ついには建設中のスエズ運河にて死んだ。
 ラフカディオ・ハーンも、ゴーギャンも、あらがえぬ「漂白の血」をもって生まれているように思われる。しかし、それは、なんなのか。


  

   ↑ マルティニーク島から帰ってきてパリで描いた『仔猫』という作品の猫(1888年)


 

   ↑ 『われわれはどこから…』の中に描かれた猫。(1897年)
     同じ猫だが、白くなった。 (あっ、漂白されたのね! )


 ラフカディオ・ハーンは、マルティニーク島へ来る前、ニューオリンズでは、「ナニー」と名付けた小猫を飼っていた。 灰色斑の雌猫で、ずいぶんとかわいがっていたようだ。
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洞窟芸術

2009年06月29日 | はなし
 これはドイツ南部のホーレ・フェルス洞窟から去年発掘され、先月に発表された「ビーナス像」の写真を観て描きました。3万5千年前の、世界最古の芸術作品です。大きさは7センチほどの小さなもののようです。
 そして今月24日に、同じ洞窟から出土した「世界最古の楽器」が発表されました。フルートです。ハゲワシの骨でできているんですって。

 もともと、このホーレ・フェルス洞窟からは、すでに別の芸術作品が発掘されていました。



 「馬」、「鳥」、「ライオンの頭部をもつ人物」の象牙彫刻です。これらが、「ビーナス像」「フルート」とともに、世界最古の芸術作品ということになります。(発見されていないものは除いて、ですが。)


 このホーレ・フェルス洞窟、どこにあるのでしょう? 調べてみましたら、どうやらウルム市の近くにあるようです。ここは、前回書いたヴュルツブルクの南に位置していて、ドナウ川が流れています。

 そしてこのウルム市は、物理学者アルバート・アインシュタインが生まれた街でもあるのです。


 さてもう一度、「ビーナス像」と「フルート」にもどって考えてみましょう。
 3万5千年前、というのはクロマニヨン人(ヨーロッパ人の祖先)が現われた頃ですが、そもそも、「洞窟芸術」とは、なんでしょう? 

 中沢新一氏の著書に書いてあったと思いますが、それはつまり、「古代における秘密結社」なんですって。女人禁制、男たちだけの秘密の会合です。なぜ女人禁制なのかというと、女性が混じると、緻密に組み立ててきた「儀式」がいっぺんにダメになってしまう危険性が大きいからなんですって。
 「ビーナス」というのは、つまり、「大地の母の神秘」です。大地は「豊かさ」を魔法のようにもたらしてくれます。 洞窟芸術の儀式は、男達が、そうした母なる大地の不思議さとつながりを持ち、幸福感を確認したいという作業なのです。
 ではなぜそこに女が入れないかというと、女という存在そのものが(男とちがって)すでに「大地の神秘の子」であるからなんですね。子ども産んだりお乳出したりオンナってのはそのまんま、すごい。 そしてある種の女は、男たちのように「儀式」を使わなくても、ストレートに大地の母と結びついてしまう。(そういう力の大きい女性を、後世では「魔女」と呼んだのでしょう。) そういう女性が、男達の「秘密結社」に参加すると、彼らが一生懸命コツコツと積み上げていったおごそかな「儀式」というものが、ぶち壊されてしまうのです。彼女は勝手に飛んでしまって、男達を置き去りにしてしまう…。 つまり、男と女とでは、大地と結びつくために別の道をいく、構造的にそんなふうにできているらしいということです。
 ちなみに、キリスト教等は、(大地ではなく)「天」にいる男の神様ですね。西洋社会が、「嫌なもの」として魔女を怖がったのは、それが大地とつながる力をもっていたからです。 そしてまたヨーロッパでは、ずっと「秘密結社」が作られました。趣味のサークルのようなものから、まじめな勉強会、過激な政治結社まで、いろいろですが。
 この洞窟の中に、様々なものの「源流」が見える、という話でした。




 その「フルート」は、「ビーナス」から70センチほどの場所から出土したものだそうな。
 それにしても、最古の楽器がドイツ南部のこの地から出たというのは面白いですね。ドナウ川の流れをこの地から下って行けば、オーストリアのウィーンに至ります。モーツァルト、ベートーベン、ハイドンらの活躍した、言わずと知れた音楽の都です。



 ところで、3万5千年前、日本列島にはまだ人類は住んでいなかったようです。
 僕は昨年『黒曜石! 岩宿!』という記事を書きましたが、この岩宿遺跡(群馬県)は、1万年前の遺跡です。
 
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ヴュルツブルク

2009年06月21日 | はなし
 ヴュルツブルク
 ドイツ南部フランケン地方の都市。
 ドイツにロマンティック街道という観光の道があるが、南北に走るその道の北の起点になるのが、このヴュルツブルク市。

 図の右側にマリエンベルク要塞。1200年頃に造られた。
 流れる川はマイン川。150キロほど下るとフランクフルトに至り、さらに行ってマインツでライン川と合流する。ライン川は北に流れ、オランダで北海に注ぐ
 ところで、1990年代にこのマイン川と、ドナウ川(ドイツに源流がある)が運河で結ばれたらしい。(ライン・マイン・ドナウ運河という。) ということで、現代ではオランダから黒海まで川船で運行できるようになった。


 このヴュルツブルクに生まれ、江戸時代に日本にやってきた歴史上の有名人がいる。
 シーボルトである。
 彼、フィリップ・シーボルトはこのヴュルツブルクに生まれ、ヴュルツブルク大学を卒業し、医師となった。
 1822年、シーボルトは26歳のとき、日本にやってきた。目的は、植物採集であった。ドイツ人なのだが、江戸幕府はオランダとのみ交易を許可していたので、オランダ人医師として5年間長崎に滞在した。最後は、伊能忠敬のよく出来た日本地図を持ち帰ろうとしたために、(けしからんスパイだ、ということで)国外追放となった。しかし目的であった動植物のサンプル採集はおとがめなし。シーボルトは欧州へ戻り、日本の動植物の本を出版し、話題となった。
 「日本について知りたいって? あの極東の遠い国のことかい? それなら、あの人に、シーボルト氏に聞くのが一番。」  欧州で、彼はそういう存在となった。 
 
 
 時は流れて1868年、明治政府が生まれた。その3年後に廃藩置県が実行され、小さな「藩」という国の集まりだったのが、「日本」という国家になった。欧州の強国に植民地とされてしまわないために、日本は「強い国」を造らなければ、と思った。
 欧州大陸の中央では、イギリス、フランスという大国に負けてしまわないよう、やはり小さな国々が集まって「ドイツ帝国」が生まれた。1871年のことだ。 その中心となったのが、プロセイン王国であった。首都はベルリン(伯林)
 日本の政府は、このドイツ帝国に親近感と憧れを持ったようだ。ドイツは強く、勢いがあり、国民は勤勉だった。日本は、陸軍をドイツ式にし、ドイツ戦術を学んだ。憲法もドイツを規範とし作成されたし、その他、医学、哲学物理学をドイツから学ぼうと、優秀な人材をドイツに留学させた。小説『舞姫』を書くことになる森林太郎(鴎外)が、ベルリンに医学を学びに行ったのは1884年である。

 ところで、開国後、シーボルトにたいする追放令は解かれ、シーボルトは日本を再び訪れている。また、彼の次男ハインリッヒ・シーボルトは考古学者となり、日本に来て、日本人の娘と結婚したという。

 とにかく、19世紀からの、日本とドイツのつながりは深い。




 長岡半太郎
 この九州長崎県出身の物理学者がドイツ・ベルリンに留学するのは、半太郎27歳のとき、1893年である。

 その2年後、ドイツで、「大発見」があった。

 1895年暮れ、ベルリン大学で、長岡半太郎がいつものように教室へ行くと、普段よりも多くの人がいて、雰囲気が熱い。 どうしたことかと周囲に聞くと、「大発見があったぞ!」と興奮している。「なんの発見だ?」と半太郎は聞いた…。


 その「大発見」は、ヴュルツブルク大学の実験室において、なされた。 発見者は、ヴィルヘルム・レントゲン
 「大発見」されたのは、「X(エックス)」と名付けられることとなる謎の光線である。
 レントゲンは、まったく別の意図で実験をしていて、偶然にそれを発見したのであった。
 発見されたばかりで、なんなのか、まだわからなかった。ただ、それは、オカルトのように現われたり現われなかったりするものではなく、実験によって必ずだれの前にも出現した。 しかも、はっきりとした証拠をレントゲンは提出した。人間の手をその謎の(見えない)光線で写真乾板に写したものを。そこには、人の手の「骨」が写っていた。その光線は、人体を通過するのだ!




 長岡半太郎は、X線の発見のニュースを手紙で日本に知らせた。
 世界中の科学者たちが興奮した。なぜ、こんな不思議なものを、いままで見逃してきたのか。X線の正体はやがて波長のすごく短い電磁波と判明したが、実験室にはなんども現われていたはずのものだった。たまたま、レントゲンがそれに注意を止めたのだった。
 X線を利用して、今まで可視光線では見ることの出来なかったものが見られるのではないか。科学者たちは色めきたって実験をはじめた。もちろん日本の科学者も。

 次の大事件は翌年フランスからもたらされた。X線のニュースに刺激を受け、アンリ・ベクレルは、蛍光の中にもX線があるのではないか、と考えた。 蛍光を発する物質を含むある鉱物(ウラン鉱だった)を用意して実験したところ、またしても偶然に、別の「新しい何か」が発見されたのだった。
 その新しい謎の光線(?)には、「放射線」(radioactivity放射するもの)という名前が付けられた。
 しかし、これはいったい、何だ?
 正体が不明だった。 謎がさらなる謎を呼びこんだ。


 さらに1897年、イギリスではJ・J・トムソンが「電子」を発見した。
 1890年代から電気は(エジソンやテスラにより)実用化されつつあった。けれども、その電気の正体はといえば、どうにもわかっていなかった。それがついに、陰極から放出される粒子として証拠が確認されたのである。

 だが、「電子」の謎は、終わったわけではなかった。 謎は、はじまったばかりだったのだ。



 X線は、20世紀の物理学という、新しいドアを押し開いたのだ。

 1901年、ヴィルヘルム・レントゲンは第1回ノーベル物理学賞の受賞者となった。
 それはどこでだれが発見してもおかしくなかった。ただ、偶然にだが、ドイツ南部のヴュルツブルクの実験室で発見されたという事実があるのである。
 


 ところで、E・E・スミス『宇宙のスカイラーク』は、主人公リチャード・シートン(科学者)が実験中、偶然に、「金属X」という未知の金属を発見するところから始まるSF物語である。
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クライストチャーチ

2009年06月16日 | はなし
 
 ニュージーランドの女性歌手ビック・ルンガはクライストチャーチ市の出身であると、僕は前回記事に書きました。 (ニュージーランドは今、冬。インフルエンザ増量中。)

 上の絵は、ニュージーランドのそれではなく、イギリス・オックスフォードクライストチャーチ・カレッジの大ホールの写真をみて描いたもの。
 イギリスの大学のしくみがよくわからないのですが、どうやら、オックスフード大学があって、その中にいくつかの大学(カレッジ)があるようです。その中の一つにクライストチャーチ・カレッジがある。(クライストチャーチ大聖堂附属大学、というようなことでしょうか。)
 オックスフォード大学は、欧州で最古の大学なのだそうです。
 ロンドンにテムズ川が流れていることはよく知られていると思います。このテムズ川を上流に遡って(西に)いくとオックスフォードに着きます。
 19世紀、このオックスフォードから、ニュージーランドに殖民したイギリス人たちがいました。彼らは、新しく開いたニュージーランドのその場所を、「クライストチャーチ」と名づけたのです。 その殖民活動は1850年頃から始まりました。




 オックスフォードには、欧州最古の図書館(ボードリアン図書館)もあるようです。その図書館を舞台にした小説(↑)を僕は最近読んでそれを知りました。 
 善と悪が闘って、「すごい本」を取り合う、というファンタジーです。フツーに、善が勝って、ああよかったね、という内容です。



 以下は、その本とはべつの、オックスフォードに生まれた物語、超有名な、あの物語にまつわる話。

 昔のイギリスの大学というのは、職員とその家族と学生とが、みな同じ敷地内に寝食を共にして暮らしていたようです。

 むかし、このクライストチャーチ・カレッジの数学の講師にチャールズ・R・ドジスンという人がいた。その当時のクライストチャーチ・カレッジの学長はヘンリー・リデルといった。このリデル家には三人の娘がいて、娘達はドジスンさんとよく遊んでいた。ドジスンさんは、部屋に遊びに行ってもいやがらず、おもしろい話をつくって、絵まで描いて楽しませてくれるのだ。
 ある日、ドジスンさんとその同僚のおじさんと三人のリデル姉妹とで、ピクニックに出かけた。娘たちは、(いつものように)「ドジスンさん、なにかお話をして!」とせがんだのだった。
 その日のドジスンさんの「おはなし」は、どうやらとびっきり面白かったようだ。学長の三姉妹のまん中の娘アリス・リデルは、次の日に、「ドジスンさん、おねがい、きのうのお話をあたしたちのために清書してほしいの」とドジスン氏に、しつこくしつこく約束を迫ったのだ。 ドジスンさんは「やってみるよ」と返事をした。即興でつくったその話を忘れないために、ドジスン氏は徹夜をしなければならなかった。 1861年夏の出来事である。
 その年の冬、ドジスンさんは手書きの本をアリスに贈った。表紙も挿絵も自分で描いて。

 タイトルは、『アリスの地下の冒険』


 アリスは草むらにいて、退屈している。するとそこに服を着たウサギが走ってきて「たいへんだ、たいへんだ、遅刻してしまう」と言っている。びっくりしたアリスは、ウサギの後を追いかけていく。 そして、ウサギ穴へ…。


 そんなウサギがいたら、そりゃあ、後を追いかけたくなるよなあ。


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アオテアロア

2009年06月14日 | はなし
 「アオテアロア」とは、マオリ語で「白く長い雲のたなびく地」の意味。ニュージーランドのことである。 またの名を、キーウィの島。
 ニュージーランドの国土は、日本の3分の2、人口は430万人。四季があり日本とよく似た気候とのこと。 住みやすそ~。日本の人口もそれくらいが理想と思うけどな。 行ってみたいな、アオテアロア。


     
 
 ビック・ルンガ。
 僕は、去年FMラジオで偶々「GET SOME SLEEP」という曲を聴いて、興味をもちまして。パソコンで調べてみたら、その時、彼女は日本に来ていたようです。
 マオリ族と中国人の混血で、ニュージーランド南島のクライストチャーチ出身だという。
 マオリ族というのは、あれです。ラグビーのチーム、オールブラックスのあの「カマテ・カマテ…」という踊り、あれがマオリの戦いの踊り(ハカという)の一つ。

 で、そのビック・ルンガのCDアルバムをアマゾンで買ったのですが、よくわからないのですが、775円とえらく安いのはなぜなんですかね? 新品なのに。 勿論、モチロン、安いんだから文句はないです。



 そして――、以下は、いっしょに買った本。


 ↑ これ、カッコイイ表紙でしょう!
 ベルギーのソルベイさんが大物物理学者を呼んで開いた1927年の第5回ソルベイ会議の写真が元になっています。 (アインシュタイン、ハイゼンベルク、ボーアが水色の枠で囲ってある。)




 『なんでも三間飛車』 (←さんげんびしゃ、と読みます)
 前回記事「よこふ物語」で書いたように、横歩取りという戦法は、最初からけっこう大変です。 映画『椿三十郎』のラストシーンの三船敏郎と仲代達也の戦いのように、一瞬で勝負が決まったりする。(いやあ、たとえが古すぎますか…) 定跡を知らないためにコロリと負けたりする…。
 矢倉、角換わり、横歩取り、相掛かり…こんなに定跡を覚えなきゃならないなんて、ああ、いやだいやだ。いやだ~!!
 ――なんていう人は、「振飛車党」になればよろし。それですべてお悩みは解決します、ハイ。 三間飛車とゴキゲン中飛車が、今の流行でございます。

 この本の著者の戸辺誠五段(22歳)は、この春C1クラスへみごと昇級しました。その勢いを駆って、戸辺さん、ニュージーランドまで行って、将棋を流行らせてください。(ムチャブリご免!) それか、「カマテ・カマテ…」を習ってきて対局前に踊るってのは、どう?
       →戸辺流ブログ


◇棋聖戦(5番勝負)
  羽生善治 1―0 木村一基

  カズキ氏がタイトル戦ではじける日はいつ来るのか!? 
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ライヘンバッハの滝

2009年05月28日 | はなし

 〔 それはじつに恐ろしい場所だった。雪どけで噴水した激流は、巨大な深淵にむかって恐ろしい勢いで落下していた。あたりは飛沫で火事場の煙のようなものがたちこめている。まっ黒に光る岩にせかれて、巨大な青い水柱となって落ちる水は、底しれぬ滝つぼにわきかえり、煮えかえり、飛沫をあげ、耳をろうするうなりをあげ、見ているものの頭をくらくらさせる。 〕  

  ( コナン・ドイル著 シャーロック・ホームズ シリーズ 『最後の事件』 延原謙訳 )


 シャーロック・ホームズは一度、死んでいる。
 ロンドンの凶悪な犯罪の半分に関わっているという悪玉モリアーティ教授とともに、スイスのライヘンバッハの滝で、親友ワトソンの前から姿を消した。1891年5月のことである。

 ライヘンバッハの滝は、スイスの中央部にあって、そういう理由で、いまは観光地になっている。ホームズが死んだ場所に、ここですよ、と、「×」のしるしが書いてあるという話である。
 他の小説も書きたいのに、ホームズ・シリーズばかりを書けと要求され、すっかり嫌気がしていたコナン・ドイルは、この滝を見たとき、これこそシャーロック・ホームズの最期の場所にふさわしい、と考えたようである。
 結局、復活させられるのであるが。 人気スターはそうかんたんに死ねないのである。

 それにしても、モリアーティ教授(数学の天才で、しかもロンドンで最も凶悪な男)とはなんだったのか。
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猫の額に、鳥

2009年05月17日 | はなし
 パウル・クレーの『猫と鳥』は1928年の作品。

 「猫の額ほどの…」という言葉がありますが、その猫の額に「鳥」。 どういうことなんですかねえ。


 クレーはスイスの首都ベルン近くで生まれました。画家活動の中心はドイツでしたが。ロシア出身のカンディンスキーらとともに活動していたようです。両親ともに音楽家で、それで彼も音楽にはとても詳しかったようです。
 クレーの絵は、いいですね。 怖いかんじの深みもあり、かわいらしさもあり、飽きさせません。



     『金色の魚』1925年  
 ただ魚を描いただけだというのに、これは、とても気になる画だ。




 スイスのベルンで思い出すのは、アインシュタインがこのベルンの町の特許局で働いていて(大学での就職口がなかったのだ)、そこで暇を見つけていくつかの論文を書いたのだが、それらがあの特殊相対性理論など、どれもが後に世の中の常識をひっくり返すようなものだったということだ。その発想があまりに突飛だったために、理解されるのに時間が必要とされた。 有名な特殊相対性理論だけでなく、ブラウン運動に関わるもの、それから、光量子仮説の論文、これらはいずれも革新的なものであった。だからそれらを発表した1905年はアインシュタインの(物理学界の?)「奇跡の年」と呼ばれることとなったのである。
 このときのアインシュタインはスイス国籍を取得していて、だから、スイス人だった。その後、ドイツへ戻る。
 アインシュタインは、1922年に日本へ行くその船(北野丸)の船上で、ノーベル物理学賞受賞の知らせを受けた。受賞理由は、相対性理論ではなく、光量子仮説についての論文が評価されてのものだった。
 同じ年にボーア(デンマーク)もノーベル物理学賞を受賞した。1920年代、ドイツの大学を中心舞台として、原子や電子についての論議が沸騰し、量子力学が発展していくこととなる。

 アメリカで、E・E・スミスが『宇宙のスカイラーク』を書いたのも、この時代のことである。
 


  クレーの天使の図は、なかなかけっこうな人気者だ。



クレーの愛猫「ビムボー」、と書いてある。



追記: 
  この記事を書き始めようとしていたまさにその時、日曜美術館『戦争と芸術 クレー 失われた絵』(再放送)をやっていたんですね。  見損ねた! 『ジャンク・スポーツ』観てましたワ~!
 へええ、パウル・クレーは亡くなる前年1939年に1254点もの絵を描いたんですか。スイスで。
 ( 同じ時、アメリカ・ニューヨークでは、未来のSF人気作家達、ヴォークト、ハインライン、アシモフがデビュー。  ナチス・ドイツはポーランドへ侵攻、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が幕を開ける。 アインシュタインはすでにアメリカへ亡命しており、プリンストンに住んでいた。 )
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