18世紀になってやっと、「電気」の研究ははじまった。
その電気には2種類あるとわかった。(プラスとマイナスのこと。それを発表したのはアメリカのベンジャミン・フランクリン。)
電荷をもつ2つのものを置いたとき、引っぱりあう力(引力)が働くときと、反発する力(斥力)が働くときとがある。それは、よし。――では、その際の「力」の大きさは?
その場合の、力(F)の大きさが、2つのものの距離(r)と電荷(q)によってどう決まるか、についての計算式、それが「クーロンの法則」(上図)。 つまりこれは、「電気力の大きさ」を示す式である。
前回記事でマルティニーク島について触れたので、今回は、この島といささか繋がりをもつ人物クーロン氏のことを書いてみます。
‘クーロン’って? 物理の教科書にも出てくる「クーロンの法則」――これをつくった(発見した)のが、フランス人シャルル・ド・クーロン(1736-1806)。
このクーロン氏、マルティニーク島に8年間フランス陸軍から派遣されて滞在しているのである。ただしそれは1764年からのことで、だからゴーギャン、ハーンの時代(1887年)よりも120年以上前になるけれども。 土木が彼の専門だったようだ。 このカリブの小さな島、マルティニーク島の周囲は、イギリスやスペイン等他国の領有する島々で、だからこそフランスにとってこの島が軍事的に重要だったのだろう。
で、シャルル・ド・クーロンは、そういう任務に就きつつ、同時に科学の実験を行った。摩擦や電気に関する実験である。
その後、フランス母国へ戻り、研究・実験も続け、そして1785年、「クーロンの法則」を発表した。
よく考えてみよう。これは驚くべき発見である。
というのは、これ以前には、まだ電気に関する研究で、数式で示されたものなどほとんどないからである。
たとえば、(私たちが中学で習う)あの単純な基本の式「オームの法則(I=E/R)」、あれが歴史の中に登場するのは1826年だから…、「クーロンの法則」は、それよりも40年も早く登場しているのである。
イタリアのガルバーニがカエルの脚が電気で動くということを発見・発表し話題になったのが1780年。同じくイタリアのボルタが電池を発明したのは1800年。オランダでエールステッドが電気力で磁石が動くことを発見してびっくりしたのが1820年。
そんな電気学の始まりの時代に、1785年、「クーロンの法則」のような数式を提示していたというのは、シャルル・ド・クーロンが図抜けてすぐれた科学者であったことを示している。
ところが、である。
ずっと後――1870年代になって、シャルル・ド・クーロンよりも10年ほど前に、これと同じ法則を先に見つけていた男がいた、という事実が明らかになったのである!!
その事実を明らかにしたのはイギリスのJ・C・マックスウェル(1831-1879)だ。 マックスウェル自身、19世紀の電磁気学を一つにまとめた物理学の大巨人である。(―ただし、今日の主役は彼ではない。)
1870年頃、イギリス・ケンブリッジ大学に、大資産家のキャベンディッシュ家から多額の寄付があった。そして設立されたのが「キャベンディッシュ研究所」。 で、その初代所長にJ・C・マックスウェルが就いた。
もともと、キャベンディッシュ家からは、18世紀後半、ヘンリー・キャベンディッシュというすぐれた科学者が出ていたのである。
本日の2ばんめの主役、登場です。
ヘンリー・キャベンディッシュ(1731-1810)。
彼は、気体の「水素(Hydrogen)」の発見者として化学史に名を残している。また、地球の密度を最初に測定した者として。
ただ、キャベンディッシュが「水素」についての研究発表をしたとき、フランスのラボアジェが「俺のほうが先にそれは見つけていた」といちゃもんをつけた。それはほんとうだったかもしれないが(そしてラボアジェも確かに優秀な科学者であったが)、発表していなかったのだから、しかたがない。 それで、「水素の発見者」という栄誉はキャベンディッシュのものとして認められることなったわけだ。
おもしろいのはこの後である。
キャベンディッシュは、人間関係のわずらわしさを出来うる限り避けて暮らしていたという。彼のことを調べると、「キャベンディッシュは変人だったので…」などという文章がしばしば出てくる。 「シャイ」というレベルではなく、「変人」と呼ばれるほどの、人付き合いの苦手な男だったらしいのだ。食事もドアの前に持ってこさせて、できるだけ人との接触を避け、部屋の中で一人で食事をとっていたのだという。
そういう人物だから、キャベンディッシュは、「水素」についてのラボアジェとの「揉め事」にすっかりうんざりしたようなのである。 それでその後は、コツコツと自分の好奇心にしたがって研究・実験を重ね、しかし、そのままにして発表しなかった。だから、彼が何を考え、何を実験していたか、他の人は知りようがなかった。
キャベンディッシュのその実験結果と考察は、彼のノートに記された。そのノートは何十冊にもなり、そして1810年にキャベンディッシュは78歳でこの世を去る。彼の研究ノートは(彼のもともと沢山あった資産とともに)キャベンディッシュ家に残された…。
そして60年後。
上に述べたように「キャベンディッシュ研究所」が設立された。初代所長マックスウェルの最初の仕事は、眠っていたヘンリー・キャベンディッシュのノートを調べ、その実験を綿密に検証し、『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学論文集』としてまとめることであった。
すると次第に、キャベンディッシュの実験は大変に信頼できる精密なものと判り、さらに、次の驚くべき事実が判明したのであった。
ヘンリー・キャベンディッシュはすでに1773年に「クーロンの法則」を見つけていたのである。
シャルル・ド・クーロンよりも12年早く。
しかも、それだけではなかった――。
その電気には2種類あるとわかった。(プラスとマイナスのこと。それを発表したのはアメリカのベンジャミン・フランクリン。)
電荷をもつ2つのものを置いたとき、引っぱりあう力(引力)が働くときと、反発する力(斥力)が働くときとがある。それは、よし。――では、その際の「力」の大きさは?
その場合の、力(F)の大きさが、2つのものの距離(r)と電荷(q)によってどう決まるか、についての計算式、それが「クーロンの法則」(上図)。 つまりこれは、「電気力の大きさ」を示す式である。
前回記事でマルティニーク島について触れたので、今回は、この島といささか繋がりをもつ人物クーロン氏のことを書いてみます。
‘クーロン’って? 物理の教科書にも出てくる「クーロンの法則」――これをつくった(発見した)のが、フランス人シャルル・ド・クーロン(1736-1806)。
このクーロン氏、マルティニーク島に8年間フランス陸軍から派遣されて滞在しているのである。ただしそれは1764年からのことで、だからゴーギャン、ハーンの時代(1887年)よりも120年以上前になるけれども。 土木が彼の専門だったようだ。 このカリブの小さな島、マルティニーク島の周囲は、イギリスやスペイン等他国の領有する島々で、だからこそフランスにとってこの島が軍事的に重要だったのだろう。
で、シャルル・ド・クーロンは、そういう任務に就きつつ、同時に科学の実験を行った。摩擦や電気に関する実験である。
その後、フランス母国へ戻り、研究・実験も続け、そして1785年、「クーロンの法則」を発表した。
よく考えてみよう。これは驚くべき発見である。
というのは、これ以前には、まだ電気に関する研究で、数式で示されたものなどほとんどないからである。
たとえば、(私たちが中学で習う)あの単純な基本の式「オームの法則(I=E/R)」、あれが歴史の中に登場するのは1826年だから…、「クーロンの法則」は、それよりも40年も早く登場しているのである。
イタリアのガルバーニがカエルの脚が電気で動くということを発見・発表し話題になったのが1780年。同じくイタリアのボルタが電池を発明したのは1800年。オランダでエールステッドが電気力で磁石が動くことを発見してびっくりしたのが1820年。
そんな電気学の始まりの時代に、1785年、「クーロンの法則」のような数式を提示していたというのは、シャルル・ド・クーロンが図抜けてすぐれた科学者であったことを示している。
ところが、である。
ずっと後――1870年代になって、シャルル・ド・クーロンよりも10年ほど前に、これと同じ法則を先に見つけていた男がいた、という事実が明らかになったのである!!
その事実を明らかにしたのはイギリスのJ・C・マックスウェル(1831-1879)だ。 マックスウェル自身、19世紀の電磁気学を一つにまとめた物理学の大巨人である。(―ただし、今日の主役は彼ではない。)
1870年頃、イギリス・ケンブリッジ大学に、大資産家のキャベンディッシュ家から多額の寄付があった。そして設立されたのが「キャベンディッシュ研究所」。 で、その初代所長にJ・C・マックスウェルが就いた。
もともと、キャベンディッシュ家からは、18世紀後半、ヘンリー・キャベンディッシュというすぐれた科学者が出ていたのである。
本日の2ばんめの主役、登場です。
ヘンリー・キャベンディッシュ(1731-1810)。
彼は、気体の「水素(Hydrogen)」の発見者として化学史に名を残している。また、地球の密度を最初に測定した者として。
ただ、キャベンディッシュが「水素」についての研究発表をしたとき、フランスのラボアジェが「俺のほうが先にそれは見つけていた」といちゃもんをつけた。それはほんとうだったかもしれないが(そしてラボアジェも確かに優秀な科学者であったが)、発表していなかったのだから、しかたがない。 それで、「水素の発見者」という栄誉はキャベンディッシュのものとして認められることなったわけだ。
おもしろいのはこの後である。
キャベンディッシュは、人間関係のわずらわしさを出来うる限り避けて暮らしていたという。彼のことを調べると、「キャベンディッシュは変人だったので…」などという文章がしばしば出てくる。 「シャイ」というレベルではなく、「変人」と呼ばれるほどの、人付き合いの苦手な男だったらしいのだ。食事もドアの前に持ってこさせて、できるだけ人との接触を避け、部屋の中で一人で食事をとっていたのだという。
そういう人物だから、キャベンディッシュは、「水素」についてのラボアジェとの「揉め事」にすっかりうんざりしたようなのである。 それでその後は、コツコツと自分の好奇心にしたがって研究・実験を重ね、しかし、そのままにして発表しなかった。だから、彼が何を考え、何を実験していたか、他の人は知りようがなかった。
キャベンディッシュのその実験結果と考察は、彼のノートに記された。そのノートは何十冊にもなり、そして1810年にキャベンディッシュは78歳でこの世を去る。彼の研究ノートは(彼のもともと沢山あった資産とともに)キャベンディッシュ家に残された…。
そして60年後。
上に述べたように「キャベンディッシュ研究所」が設立された。初代所長マックスウェルの最初の仕事は、眠っていたヘンリー・キャベンディッシュのノートを調べ、その実験を綿密に検証し、『ヘンリー・キャベンディッシュ電気学論文集』としてまとめることであった。
すると次第に、キャベンディッシュの実験は大変に信頼できる精密なものと判り、さらに、次の驚くべき事実が判明したのであった。
ヘンリー・キャベンディッシュはすでに1773年に「クーロンの法則」を見つけていたのである。
シャルル・ド・クーロンよりも12年早く。
しかも、それだけではなかった――。
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